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闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(1)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

HOME > Diary > 第1部 悪性リンパ腫(1)

vol.1 物語のはじまり

突然やってきたリンパ腺の腫れ

 話は1987年(昭和62年)の3月にまでさかのぼる。
 私は24歳だった。

 自覚症状のはじまりは「左頸部(根元付近)のしこり」だった。
 患部は柔らかく、痛みはなかった。
 最初は触ってみるとしこりがあるかな?という程度だったが、6月頃には首の根元が瘤のように腫れあがり、外から見てもわかるくらいになった。
 さすがにここまで腫れると放っておくわけにはいかず、J堂大学医学部附属J堂医院の内科に行った(ちょうどアレルギー性の白内障手術のため、J堂医院に入院した直後だったので)。

 まずは結核を疑われてツベルクリン反応検査を行うが、結果はほぼ陰性に近い擬陽性。肺のレントゲンにも異常は見られなかった。
 その他の血液検査の結果も、炎症反応が高いこと以外、特に変わったところはないという。
 結局「わからない」ということで外科の教授のところにまわされた。

 外科を受診したのは7月に入った頃だった。
 教授は首を念入りに触診し、「結核性のしこりは一カ所に集まっていることが多いが、小さいしこりがバラバラに点在しているので、結核性ではないだろう」と言った。

 血液検査→触診ときたら、次はエコーとかCTなどの画像検査になりそうだが、このときは即「生検」を勧められた。
 「切って、組織を直接調べてみないと判断できない」と言うのだ。
 今でも外科医はすぐに生検生検言うが、この時代はさらに容赦なく切られた。
 東洋医学的には、身体にメスを入れるリスクは外科医が考えている以上にあるそうだが、このときはそんな知識もなかったし、医者が言うことに異を唱えることなど思いもよらなかった。

 「とにかくまずたくさんあるしこりのうちのひとつを切除して調べてみて、問題があるようならあらためて全部を切除する方向でいきましょう」というのが教授の見解だった。
 一部切除なら浅い部分だけなので外来手術でもできるらしいのだが、腫れもひどいし、アレルギーもあるので万全を期するために入院してやりたいという。
 目の手術が終わったばかりだったので「また入院?!」とがっくりしたが、しかたなく入院手続きを行った。

 ところが、幸か不幸か入院待ちをしているうちに腫れがどんどんひいてきてしまった。
 あらためて教授に見せに行ったところ、「これだけ腫れがひけば外来でもできそうですね」と言われたので、急遽7月15日に外来で生検を行うことになった。

 生検は局所麻酔で1時間にわたって行われた。
 2週間後に出た診断は「非特異性リンパ節炎」
 原因はわからないが、悪性ではない。ということらしい。

 原因がわからないのはスッキリしなかったが、リンパ腺の腫れの原因は無数に考えられる以上、悪いものではないと言われたらもうそこで納得するしかない。
 しこりはまだ残っていたが、腫れも小さくなったことだし、この件はひとまず決着ということでうやむやなまま終了になった。


そして翌春ふたたび…

 しかし、この出来事はこれから始まる歴史の「序章のほんのさわり」にすぎなかった。
 翌年(1988年)の1月、25歳になった私は新しい会社に転職して張り切っていたが、その3ヶ月後に再びしこりのまわりが腫れ始め、しまいには背中のほうまでパンパンに腫れ上がるほどになってしまった。
 今度は前よりも固いし、熱ももっていた。押すと痛みもある。

 5月に再びJ堂医院の内科を受診したところ、今度はウィルス感染を疑われ、麻疹やおたふく風邪の抗体検査を受けるが、異常なし。
 またまた1年前と同じで外科にまわされた。

 外科の診察を受けたのは5月12日のことだった。
 教授は、患部の腫れを見て「去年の病理の結果はなんでもなかったはずなのに、なぜまたこんなに腫れてるんだ。おかしい」と驚いている。
 「そうなると、去年とったしこりと、まだ奥に残っているしこりは違う性質のものかもしれないですね…」とつぶやく教授。
 「え…それって、また切らなきゃだめってことですか?」と聞いたら、「これだけ腫れてたら切るのは外科の常識。今度は全麻で根こそぎ切ります。至急入院手続きしてください」とすっぱり言い切られた。

 私は蒼白になって「今度は悪いものかもしれないってことですか?」「入院ってどのくらいしなきゃいけないんですか?」と矢継ぎ早に聞いたが、「それは切ってみなければなんとも言えません」の一点張りで、それ以上のことはなにも聞き出せなかった。
 「切らなきゃわからない」
 どんなに検査の精度があがっても、外科医は必ず最後にはこう言って切りたがるのだ。

 「悪いものかも」「悪いものかも」という言葉が頭の中でぐるぐる渦巻いたまま、入院手続きにいったが、ここでも「いつ入院できるのかは前日になってみないとわからない」の一点張りで、入院の日程も病気の内容も宙ぶらりんの状態で病院をあとにするしかなかった。

 5月17日、あらためて外科からのオーダーで、血液検査、尿検査、ツベルクリン注射、胸部・腹部レントゲン、心電図などの検査が行われたが、やはり以前内科で検査したときと同じで、炎症反応がある他は異常なしだった。

 それからの日々はまるで死刑囚が刑執行の呼出しを待つような気分だった。
 1年前に一度「良性」と言われて安心していただけに、余計に精神的ダメージが大きかった。
 目には見えないこの皮膚の下で、いったい何が起こっているのかと思うと自分の身体がとてつもなく不気味なものに思えた。

 今だったらさしずめネットで診断探しに没頭するところだと思うが、当時はまだインターネットなどない時代。
 調べようと思ってもせいぜい素人向けの医学書を読むくらいしかできない。
 読むとどの病気もあてはまるような気がしてしまうので、診断がつくまではこの手のものは読んではいけないと言われているが、診断がつかないから不安で読むわけで、読むなと言われてもそれは無理な相談だった。

 そして案の定私はネガティブスパイラルに陥った。
 リンパ腺が腫れてるだけだったらいいけど、熱が出たらやばいぞ。
 食欲がなくなるようだったらアレかも。
 血尿が出たらコレという可能性も。
 あれこれ疑い始めたら、そのストレスで本当にその症状に身体がひきよせられてしまい、何か変化があるたびに「うわぁ〜、これもうダメかも!」とドキドキした。

 最近は、がん検診反対論の中に「むやみに要精密検査が出ることによって、結果が出るのを待っている間に健康な人までストレスで具合が悪くなってしまう」という弊害を指摘する声があるが、このときの私もまさにその状態だった。
 気力・集中力は低下し、身体に力が入らない。
 気晴らしを考えようとしても「所詮、どんな気晴らしも健康あってのものだよなー」と思うとどっと落ち込み、仕事も無意味に思えてきた。

 なによりもつらいのは、健康な人と一緒にいることだった。
 すべての人がお気楽に見えて、その中に入れない自分がいらだたしくて、心がどんどんすさんでいった。
 もっともきつい慰めの言葉は「あんまり考えないほうがいいよ。考えたって治るもんじゃないんだから」だった。
 言ってる当人に悪気がないことは重々わかっているが、考えてもしょうがないことを考えずにいられないから苦しんでいるのにどうしてこんなことが言えるんだろうと傷ついた。

 たまりかねて「もう頭がおかしくなりそう。一人になりたいので休職させてください」と会社に頼んだが、上司には「一人で閉じこもって考え込むのはよくない」と言われ、総務には「病名がわからず、診断書もないのに休職扱いにはできない。休みたいなら勝手に欠勤すれば?」と言われてまたショックを受けた。
 冷静に考えれば会社の言い分はしごくごもっともなのだが、なにせこのときの私は普通の精神状態ではないので、「人がこんなに苦しんでいるのになんという言い草だ」と憤った。
 まっとうなことしか言えない会社にも、「悪いものかもしれない」なんて脅すだけ脅しておいて、あとはベッドが空くまで放置…という病院の対応にも腹が立った。

 私のストレスをまともにかぶったのは家族だった。
 どんどんやさぐれていく私の様子を見た母は、「そんなに待つのがつらいんだったら他の病院に行ってみては?」と知り合いのつてをたどってべつの大学病院にも電話をしてくれたが、「うち来ても同じですよ」「前に同じ病院で手術したことがあるならP病院に行ったほうがいいんじゃないですか?」とにべもなく断られ、「こうなったら直談判あるのみ」と決意したのか、直接教授を脅しにかかった。

 それは、毎週火・木の教授の診察日になると、単身で病院に乗り込んで行っては、やれ「会社で倒れたの」「ノイローゼになりかかってるの」と大げさにまくしたてて、「なんとか早く入院させてください!」と迫るという原始的な方法だったが、この圧迫受診(?)はけっこう効果があったようで、教授が「外科病棟は空かないけど、他の病棟ならなんとか入れるかも…」と入院係にかけあってくれて、結局予想以上に早く順番がまわってきた。
 母は得意げに「ふふん、私のお陰ね」と鼻を鳴らしていたが、その言葉は本当だった。

 5月26日の午後、病院から会社に電話が入った。
 「ベッドが空きました。明日から入院してください」
 それからの24時間は修羅場だった。
 怒濤のように仕事を片付け、上司や同僚に入院することになった事情を説明し、あとを頼み、家に帰って入院準備をし、翌朝10時半には手続きを済ませて病棟入り。
 もちろん、このときは手術が終わればまた戻ってくるつもりでいたので、私物もそのままにして会社を出た。
 二度と戻ってくることはないとも知らずに……。

<2013.01.01更新>

vol.2 ワースト・オブ・術前検査

針刺し地獄

 1988年(昭和63年)5月27日金曜日。
 P病院に入院。

 入院したとたん、私はすっかり精神不安から解放された。
 なによりもまわりに健康な人がいないのがいい。
 医師や看護師は24時間私の身体の状態に関心を払ってくれるし、不安なことはいつでも質問できる。
 不安を訴えても「大丈夫だよ!」「あんまり気にしないほうがいいよ!」「頑張って!」などといった無責任な言葉で話をぶったぎられることもない。
 とりあえず、どの人もきっちり話をきいてくれる。 
 病気だからといって疎外感を感じる必要もない。
 ここでは「病気」が普通であり、「病人」が主役なのだ。
 なんてすばらしいところなんだろう、病院!

 VIVA 入院!
 ……と思った。このときは。

 最初についた担当医は東山先生、西谷先生、南田先生、北原先生、李先生の5人だった。
 外科はチームで治療にあたるようになっているので、回診もいつもにぎやかだった。

 この5人の中で一番若かったのが北原先生。
 当時はまだ珍しい女性外科医で、研修医になりたてのホヤホヤの新人。年は私より一つ下だった。
 今や堂々たる貫禄の外科医となられた北原先生だが、当時はほんっっっとに頼りなくて(失礼)、良い意味でも悪い意味でも まっっったく医者っぽくなくて、担当医というよりほとんど友達感覚でしゃべっていた。

 でも、毎日毎日暇さえあれば(?)病室に通ってくれて、膨大な無駄話で私を楽しませてくれて(日記のネタも提供してくれて)、医者という立場を大幅に超えて一緒に喜んだり落ち込んだりしてくれた北原先生には今でも心から感謝しているし、日記の次に私の支えになってくれたことはたしかだった。

 入院してから最初の2週間は、連日「検査」「検査」の日々が続いた。
 診断のための「検査」もあるが、手術のための「検査」というのもある(麻酔をかけるので呼吸機能をチェックするとか、メスを入れるので出血がどのくらいで止まるのかをみるとか)。
 当時の日記をチェックしてみると内容はこんな感じだ。

【1日目】 おもに入院生活についてのオリエンテーション。担当医の紹介。問診など。
【2日目】 検尿・採血(動脈採血を含む)
      喀痰検査(痰を出して菌がないかどうかを調べる)
      呼吸機能検査
      出血時間検査(耳に傷をつけて出血させて血が止まるまでの時間を測定)
【3日目】 OFF
【4日目】 採血
      胃透視(胃のレントゲン)
      超音波検査(頸部・腹部)
【5日目】 CT検査(頸部)
      耳鼻科検査
【6日目】 ガリウムシンチ注射
      注腸検査(腸のレントゲン)
      耳鼻科検査2回目
【7日目】 採血
【8日目】 ガリウムシンチ撮影
【9〜10日目】 OFF
【11日目】 検尿・採血
【12日目】 OFF
【13日目】 血管造影(RIアンギオ)

 検査はどれも楽しいものではなかったが、私が一番苦しんだのは、検査そのものというよりも検査に伴う「針刺し」だった。

 とにかく!血管が!……出ない!

 「細い」「見えない」「逃げる」の三重苦。
 刺しにきた先生はだいたい泣きそうになるか、怒りだすかで、何度も刺され、なおかつこねくりまわされるのがデフォルトだった。
 血管が出るなら一連の検査の苦しみは半分くらいで済んだと思う。

 たまに外来でおこなう採血程度ならともかく、入院中は挨拶がわりのようにやたらに針を刺してくるので、刺せば刺すほど有効エリアは少なくなっていく。
 医者のほうも「少しでも条件のいい場所(失敗する率の低い場所)」に入れたいから、同じ血管ばかり狙おうとするのだが、医者にとって条件のいい場所は刺されるほうにとっては条件の悪い場所(ひらたく言うと痛い)だったりするので、そのへんの攻防戦は毎回切実だった。

 「お願いです。なんとかここからとってください〜」
 「うーん、自信ないな〜。全然見えないもん。ここならありそうなんだけど」
 「そこは痛いんです。マジで」
 「でもここなら一回で入るよ。何回も失敗するよりいいでしょ」
 「えーー。失敗前提ですか? もっと自信持ちましょうよ。自分に負けたら駄目ですよ」
 「でもほんと見えないもん。ほんとに血管あるの、これ」
 「ありますよ。見えないからってないことにしないでください!」

 …などという問答を毎回繰り返しつつ、結局最後は「わかりました。じゃあ一回で入れてくれるなら我慢します」としぶしぶ承諾するんだけど、「一回で入る」はずの場所でやっぱり失敗されることもしばしばだった。

 今は針の材質(?)も進化しているし、ルートだけとって血が固まらないように生理食塩水でロックしておき、水道の栓をひねるように必要なときだけ点滴につないだりはずしたりする、なんてこともできるようになっているが、もちろん当時はそんなこじゃれたものはなかったから、ただただひたすら地道に刺され続けた。

 さらに、術前に少しでも炎症を抑えるため、入院して1週間目からは、「抗生剤のチビ点滴を1日2回」というノルマが課せられ(今思うと抗生剤っていうのもウソなんじゃないかって気がするが)、たかだか30分で終わる点滴のために、その都度針を入れたり抜いたりされた。

 朝の定例採血で2回失敗→朝の点滴→朝の採血の追試(?)→臨時の採血→夕方の点滴…というように、1日に5回や6回刺されることも珍しくなく、「このままでは血管に穴があくんじゃないか」と真剣に心配したほどだ。

 点滴入れはおもに研修医の仕事だったが、一度だけ、人手が足りなかったのかめずらしく李先生が一人で点滴入れにまわってきたことがあった。
 李先生は台湾から勉強に来ていた先生で、いつもニコニコしているだけであまりしゃべらないので日本語がどこまでわかるのかはあやしかったが、妙に自信たっぷりに「どこから入れましょうか?」ときくのでちょっと期待しちゃって「えーと、じゃあ、いつも右からばかりとられるので左からお願いします」とおそるおそるリクエストしたら「わかりました」とにっこりほほえんで右にブスッとさされた。
 どうやら前半部分しかディクテーションできなかったらしい。
 まさかこんな落とし穴まであるとは思わなかったが、まあ入ったから許すことにした。


布団鍼連打の刑

 しかし、採血や普通の点滴で刺される針はまだいい。血管に合わせて細い針に変えることもできるし。
 検査の中で最も過酷だったのはラストにおこなわれた「血管造影」だった。

 撮影にあたって、肘の血管から造影剤を流し込むのだが、粘度のある液体を入れるため、針はいつもの点滴で使う針よりもかなり太いものが使われる。
 寝かされた状態だったので実物は見えなかったが、感覚としては「血管に布団針をズブズブとねじ込まれる」という感じだった。
 その痛さたるや絶叫もので、一回刺すと腕が真っ赤に腫れ上がり、肘が曲がらなくなった。

 これを私は!
 なんと!

 8回 も続けて失敗されたのだ。

 ここまで入らないとなんだかこっちが悪いような気分になってくる。
 入れるほうもだんだんいらだちを隠せなくなってきて、しまいには両サイドから同時に針を入れるという非人道的な所業にまで及ばれた。
 1時間たっても針は入らず、いったん部屋に戻ることになったが、終わりの見えない地獄に耐えられず、ついに私は泣き出してしまった。

 泣いている私を見た北原先生は、一緒に泣き出さんばかりに動揺し、「私、他に方法がないかどうか先生に聞いてくる!」と部屋を出て行った(あんたは先生じゃないんかい…と見送りながら思ったが)。

 当然だが上司にはあっさり「やらなきゃだめです」と却下されてすごすごと帰ってきた北原先生、「ごめんね。ごめんね。私もこんなことやりたくないんだけど〜」と繰り返し、まるで自分が悪いことをしたかのように落ち込んでいた。

 そのときだった。
 西谷先生が風のように病室に入ってきて、「今、一番太い針でラインを作ってあげるから、今度検査に呼ばれたらそこを使うようにしなさい」と言い、一発で18Gの針(輸血用の極太針)を手首から入れてくれたのである。
 西谷先生は回診のときにふざけてばかりいる印象しかなかったが、この出来事で見る目が変わった。

 すごい!
 かっこいい!
 ドラマみたい!
 この先生、ほんとはすっごくできるドクターなのかも!

 針が入ったのを満足そうに確認した西谷先生は、「俺ってかっこいい…」というオーラを発散させながら去っていった。
 看護師さんも「よかったね。これでもう痛い思いをしないで済むね」と喜んでくれて、私も安堵しながら検査室に向かった。

 のだが!
 そこで待っていたのは「駄目だよ。こんな末梢部分じゃ。これじゃ患部から遠すぎる」という非情な言葉だった。
 え。。。。。。。。。。それって……もしかしてよけいな1本を刺されただけってこと……??

 なんのことはない。
 私はまた10本目の布団針を刺されたのである。

 10本目の針は無事入り、検査は終了したが、私はわりきれない気持ちでいっぱいだった。
 そんなことになったとはつゆしらず、夕方の回診にやってきた西谷先生は得意満面。他のドクターに「18Gの針を一発で入れた」という手柄話をまくしたてていた。
 頭にきて「それ、使えなかったんですよ。結局もう一回刺されました」と言ったら、すごく心外そうな顔で「なんで?」と聞き返された。
 なんでって……こっちが聞きたいわ。

 内出血で一面モネの絵画のようになった腕を見せながら状況を説明したあとも、西谷先生は「それは…役に立てなくて悪かったね」とか「そこじゃ駄目だって知らなかったものだから…無駄な針刺しちゃってごめんね」という方向にはいかず、「なぜだ!俺がせっかく一回で入れてやったのに〜!」と地団駄を踏み、自分の輝かしい業績が否定されたことにのみリアクションしまくっていた。
 ああ……「かっこいい」と思った4時間前の私にこの姿を見せてあげたいよ。

 翌日、北原先生には「でもね、西谷先生も何回も刺されるのはかわいそうだからって、親切心でやったことだから、その気持ちだけはわかってあげてね」と諭されたが、10本の布団針の苦痛が身体に刻まれた私は「わざとやられちゃたまんねえよ」と心の中で反論せずにはいられなかった。

 というわけで、今回は術前検査の話でした。
 次回は「手術編」に入ります。

<2013.01.05更新>

P1110515.JPG

登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
名前をクリックすると初登場記事にジャンプします。
※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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