vol.9 殉職
突然すぎる訃報
1988年(昭和63年)7月29日金曜日。
入院64日目。
午後、病院にやってきた母の様子がおかしい。
どうしたのかと尋ねたら、まったく想像不能の言葉が返ってきた。
「新聞に出てたんだけど…」と前置きしながら母は続けた。
「中岡先生が亡くなられたらしいわよ」
不意をつかれた衝撃で自分の顔がひきつっていくのがわかった。
「なにそれ……どういうこと……」
「一昨日の手術の途中にいきなりバッタリ倒れて……心筋梗塞だって」
教授回診で代わりの先生が回ってきたというのはそういうことだったのか…。
人工呼吸のポンプの音は相変わらず規則正しく聞こえてくる。
夜に比べると昼間のポンプ音は無機的に感じられた。
「元気になって退院した姿を見てもらいたかったわねぇ。ありがとうございましたって言いたかったわねぇ…」
母はすでに涙声になっていたが、私はなかなか涙が出なかった。
どうしても信じられなかった。
回診で傷口を診ながら「吐き気はもう大丈夫なの?」と声をかけてくれたのはつい4日前のことなのだ。
これはどういうことなんだろう。
人工呼吸の患者さんはまだ生きている。
でも中岡先生はもういない。
こんなにも気まぐれに「死」は人を選ぶのか。
母がもってきてくれたとうもろこしを食べたら、いきなり涙腺が決壊した。
ダンディーな教授のコロンの匂いがよみがえり、とうもろこしの味とひとつになった。
ダンディーな先生なのに、このままではとうもろこし味と思い出が合体してしまう。
そんなくだらないことを思いながら泣きながら食べ続けた。
夜、回診に来た秋本先生に聞いたら「やっぱりきいちゃったんだ。患者さんには言わないようにしてたんだけど…」と表情を曇らせた。
大至急胸部外科の先生が呼ばれてその場で開胸手術をおこなったが、二度と心臓は動かなかったのだという。
殉職……これはまさに殉職ではないか。
その日の夜はひときわ眠れなかった。
医者は命を削って人の命を助けている。
だとすれば、私も中岡先生の寿命の数分くらいは削ってしまったのかもしれない。
中岡先生がかけあってくれたお陰で私は予定よりも早く手術が受けられた。
あのまま入院待ちをしていたら中岡先生の手術も受けられなかったかもしれない。
中岡先生の手術を受けられなかった人、受けられた人、中岡先生が倒れた現場に居合わせてしまった先生やスタッフたち、居合わせなかった人たち……その線引きはいつどうやって決まるんだろう。
中岡先生の仕事を無駄にするわけにはいかない。
私は治療を受けなければならない。
自分にはそれしかできないんだ。
逃げる道はない……。
ポンプの音と表の道路工事の音がいりまじり、不安が増幅されたが、夕べと同じように意味を考えないようにと自分に言い聞かせながら眠りについた。
つかのまの夏休み
7月30日土曜日。
入院65日目。
昨夜はいやな夢を見た。
検査のため、糸を縫うように身体中に管を通され、「そのまま待て」と言われる。
その管の先が瓶に通じているのだが、時々思い出したように血がポタリポタリと瓶にたまっていく。
その後何度か場面転換があるのだが、どの場面でも管ははずれてなくて「ああ、まだ検査終わってないんだ…」と暗くなる夢。
もうひとつは、コンタクトを眼に入れようとするのだが、何度やっても下に落として泥だらけにしてしまうという夢。
入院中に見る夢は、このように「何度同じことを繰り返しても必ず失敗して前へ進めない」というパターンが多い。
9時半。
夏目先生が回診にくる。
明日から一週間夏休みに入るらしい。
2回目の治療にあたっては、どの時点で白血球が一番落ち込むか、調子が良くなる時期は何日目くらいか、副作用軽減に効果があるのはどの薬か…などを綿密に観察し、外来治療のときの参考にしたいとのことだった。
夏目先生は私がショックを受けていることは重々わかっているようだったが、「なまじの同情心から中途半端に治療を終わらせてあとで後悔したくない」という固い信念を持っているようだった。
頭ではわかるが、何もしなければ元気なのになぜそこまでしなければならないのか、やはり私には釈然としない思いが残った。
夕食を下げにきた給仕の人が「屋上から隅田川の花火が見えますよ」と教えてくれたので行ってみた。
何人かの人が「どっちにあがるのだろう」などと話しながら花火のスタートを待っていた。もっと大勢見にきているのかと思ったが、花火どころではない人がほとんどなのだろう。
花火はなかなか始まらず、あきらめて帰ってしまう人もいて、気がついたら一人きりになってしまった。
さすがに心細くなって病室に帰ろうかなと思ったところで大学生くらいの女の子に「花火、見えた?」と声をかけられた。
その瞬間、目の前でドーンッと最初の一発があがった。
あわてて金網にへばりついて2発目を待ったがなかなかあがらない。
そのうちに同じく大学生くらいの男の子たちが「見える?」と言いながら数人集まってきた。
まもなく、本格的な花火がこれでもかという勢いで次々にあがり始めた。
特等席というほどのものではない。
建物が邪魔になって全部は見えなかった。
それでも、白い壁に囲まれ暗い日々に押しつぶされそうになっていた入院生活の中で味わえるほんのひとときの休息としては最高の体験だった。
男の子たちが屋上のベンチを積み上げて観覧席を作ってくれた。
カセットデッキを持ち込んで夏テーマのポップスを流している子もいた。
「夏って感じがしてきたね!」
隣の女の子が嬉しそうに言う。
そうだ。夏なのだ。
この年は例年になく梅雨が長くてまだ梅雨明けもしていなかったが、季節は確実に移っている。
途中、守衛のおじさんに「もう閉めるから」と言われたが、「あと少し」と哀願する私たちを不憫に思ったのか、「よーし。しかたねえ。俺も江戸っ子だ。今夜は特別だぞ」と最後まで見せてくれた。
なんだか久しぶりに興奮してしまってなかなか寝付けなくなってしまったが、楽しい不眠ならまだ救いがある。
隠遁者モード
7月31日日曜日。
入院66日目。
夕べは夢の中に中岡先生が出てきた。
3人の外国人を連れて中庭を歩いていた。
その後、なぜか私の部屋の箪笥の抽き出しから黄色い封筒に入った中岡先生の遺書が出てきた。
…という不思議な夢だった。
朝食を食べながら久しぶりにテレビのモーニングショーを見た。
入院したての頃は、世の中の動きについていくため、モーニングショーだけは欠かさず見ていたのだが、このごろはすっかり見なくなってしまった。
感情が動きすぎるというのか、ニュートラルな感覚でニュースを見るのが難しくなってきたのだ。
「病気話」や「誰それが亡くなった話」はもちろんのこと、「殺人や暴力などがからむ話」もダメだし、「頑張った系の話」もダメ。
また、世の中の動きを知れば知るほど、病院から一歩も出られない自分の状況に焦りが出てしまうため、どっちみち精神衛生上好ましくない。
そんなわけで、最初のうちはパンダに赤ちゃんが生まれたことも、整形した泉水が逮捕されたことも、ブーニンが亡命したことも、松田聖子がドミンゴと競演したことも、通り魔殺人が続いたことも、すべて知っていたが、今や軍艦と釣り船が衝突して大惨事をひきおこしたニュースがもっぱら世間を騒がせているということさえ、つい最近知ったというていたらくである。
もうひとつ、今話題になっているのは「梅雨明け」らしい。
明日から8月になるというのにまだ梅雨が明けない。
7月の日照時間はわずか51時間。真夏日はたった1日。平均最高気温は24度。
いずれも史上最低記録となった年だった。
<2013.01.24更新>
vol.10 脱毛の進行
北原先生復活
8月1日月曜日。
入院67日目。
いつも私の採血は病棟で一番腕利きのナースが担当してくれるのだが、この日は珍しく失敗。ものすごくプライドを傷つけられた様子で退場。
結局ナース同士で押し付け合ったあげく、秋本先生が責任を負わされて登場。
悪戦苦闘の末、ようやく入ったところで西谷先生が顔を見せ、「なに?採血?」と目を輝かせる。
西谷先生は採血や点滴で苦しんでいる新人をからかうのが大好物なのだ。
だが、さすがはそつのない秋本先生。
「西谷先生が一番うまいって聞いてますけど」と先手を打ってすばやくもちあげたため、西谷先生一気にデレて「いやー、一番太い針入れたこともあるんだけどねー。あれはなんの役にもたたなかったね」と自慢と謙遜をいっぺんにしていた。
夕方からだるさ、微熱、頭痛が続く。
8月3日水曜日。
入院69日目。
風邪で倒れていた北原先生がすっかり元気になって復活。
北原先生が倒れた日というのは中岡先生が倒れた日と同じで、その日も同じ手術に入る予定だったのだが、40度の熱で脱水症状を起こし、中岡先生に止められたのだそうだ。
そういう中岡先生自身もそのときにはすでに発作の予兆があり、かなり具合が悪かったらしいのだが、自分は無理をおして出たのだろう。
「私はそのあと家に帰ってずっと寝込んでたから、亡くなったと言われてもまだ実感がわかない」という北原先生。
「そんなにひどかったんなら入院すればよかったのに」と言ったら「それだけは絶対にいやだったんで、点滴の瓶を持ち帰って自分で入れた」と言う。
えーーー、自分で?信じられない。
「なかなか入らなくてさー、そりゃもう痛いのなんのって。自分で自分の血管を探るのがあんなに気持ち悪いものだとは…。でも抜くともう一回刺さなきゃいけないからぐっと我慢したよ」
は?人の点滴はためらいなく何度も刺すくせに…。
「やっと入ったと思ったら今度は血管がヒリヒリするしさー、ほんとは6本入れなきゃいけなかったんだけど3本で抜いちゃった」
ずるい!!!
「でも点滴しながらトイレ行くのって難しいんだね。すぐ血が逆流しちゃって」
「そうでしょ!」
この話題への私の食いつきはよさには北原先生もびっくりだっただろう。
私は常々この「点滴しながらトイレにいく匠の技」について誰かに自慢したくてたまらなかったのだが、感心してくれる相手がいないので披露する機会がなかった。
自慢するなら今しかないと思い、ここぞとばかりに「私がいかに華麗に管をさばいて用を足すか」について熱く語りたおす。
ない髪は抜けない
8月4日木曜日。
入院70日目。
いよいよ脱毛の副作用が出始める。
シーツや床の上に落ちる抜け毛が気になってたまらない。
血液検査の結果、やはり白血球が急激に減りだして、正常値下限の3,000を切ったらしい。
念のため今週予定していた外泊はあきらめてほしいと秋本先生に言われる。
入院時は炎症がひどかったこともあって白血球が16,000まで上がっていたので、あまりの差にびっくりする。
「こんなんで来週から治療再開していいんだろうか」と不安になったが、「今落ちてるのは前の治療の影響だから、このまま落ちっぱなしということはない」という。
とにかく、私の場合は白血球が落ちるタイミングが遅めだということがわかったので、次からはもっと早い時期(治療終了直後)に外泊を入れたほうがいいかもしれないと言われた。
夕方から37.4度くらいの熱が出てくる。
体に力が入らず、なにもする気がおきないので、友人からの差入れの漫画を読むが、ムチャクチャ笑えてちょっと気が晴れた。
タイトルは『ちびまる子ちゃん』。
まだアニメ化される前(ブレイク前)のことである。
夜、洗面に行こうと廊下を歩いていたら、暗闇でいきなり「あれー、小春ちゃんじゃない。まだいたの?」と声をかけられた。
誰かと思ったら外科病棟時代によく点滴入れにきていた研修医の先生だった。
血管が見えないとよくマーカーで印をつけながら針を刺していたので、心の中では「マーカー男」と呼んでいた。
「点滴、相変わらず入らないの?」と聞かれたので、「平均4回くらい刺されてます」と同情をひくため多少下駄をはかせた数字を言ったところ、「えー、内科って4回も刺すの?それはひどいなー!今度刺しにいってやろうか?」と内科のナースステーションのそばで大声で叫ぶので冷や汗をかいた。
この先生、喋り方に非常に特徴があり、いろいろな人が真似をするのだが、意外にも一番うまいのが秋本先生なのである。
そのあまりのうまさに北原先生が舌を巻いて「もしかしてつきあってんですか?」と質問したほどだ。思いっきり迷惑そうな顔で応えていたが。
8月8日月曜日。
入院74日目。
廊下を歩きながら病室の名札を見ると、もうほとんどが新しい人に入れ替わっている。
なんだか病院の中でもさらに取り残されて牢名主になった気分だ。
この数日、午後になると37度台の熱が出る(朝になると下がるが)。
脱毛はどんどんひどくなっている。
朝起きるたびに枕の上に散らばった抜け毛の多さに驚愕する。
洗髪なんてしようものなら束になって抜けるので、あとの掃除が大変だ。
で、決心した。
短く切ろうと。
なまじいっぱいあるから減っていくのがこわいのだ。
坊主にする勇気まではなかったが、ベリーショートにすれば今ほど抜け毛の存在感におびえることはなくなるだろう。
病院内の理髪室なんて気が進まないが贅沢を言っている場合ではない。
同じような考えで来る人はけっこう多いのか、理髪室のおばさんはすぐに事情をのみこんだようにちゃっちゃか髪を切り始めた。
段をとってボブにするまで一年かかったのに…。
一ヶ月前に高いお金払ってストレートパーマかけたばっかりなのに…。
ボブに飽きたらかっこいいショートにしてイメチェンしようともくろんでいたのに…。
まさかこんな理由でこんな場所でこんなふうに短くすることになろうとは夢にも思わなかった。
30分ほどで、体育大学のお姉ちゃんのような異様にこざっぱりとした頭ができあがった。
ストレートパーマがかかっているので段をつけても流れが出ず、河童のようだった。
ちょっとがっくりしたが、たしかに抜け毛のインパクトは前よりもなくなったので所期の目的は達成した。
夕方の回診で、「白血球の数がなんとか正常範囲まで持ち直したので、明日の呼吸機能検査、あさってのCT検査を済ませてから、2回目の治療に入りたい」と告げられる。
<2013.01.26更新>