闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(10)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.16 不協和音の中で

行き場を失った思い

 治療が終わったときの気持ちは複雑なものだった。
 「終わった。ばんざい!」
 と躍り上がって喜ぶような次元はとっくに通り越していた。
 気が抜けた……といったほうが近いかもしれない。
 治療が終わったところで、会社もクビになってしまったし、すぐに就職活動して働き始められるような健康な状態でもなく、社会に居場所が用意されているわけでもない。
 そこには「治療」という目的すらなくなった真っ白な時間が残されているだけだった。

 その一方で、私の中では長い間おさえつけられてきた「ものを表現したい」というエネルギーが極限にまでふくれあがってしまっていて、その処理を自分でもどうしたらいいのかわからずにいた。
 映画やテレビなんて見ようものなら、その刺激でさらにエネルギーがふくれあがり、パンクしそうになってこわいので、なるべくそういうものも遠ざけていた。
 一気に吐き出すには体は疲れすぎていたし、とにかく折り合いをつけながら少しずつ外へ放出していくしかないと思った。

 とりあえず、3月いっぱいはあまり外出せずに家でおとなしくしているようにと言われたので、入院中につけていた日記の整理をして過ごした。
 日記は400字詰で800枚ほどの量になっていて自分でもそのボリュームにびっくりした。
 デザイナーの知人が簡易製本してくれたので、それを友人に配って読んでもらったところ、何人かの人から「ここまで頑張って書いたんだから出版社に持ち込んで本にしたら?」と言われた。
 考えてもみなかったが、そういう方法もあるんだと気づかされた。
 それならこのもやもやしたエネルギーも行き場を与えられて昇華されるかもしれない。

 もともと個人的な記録のつもりで書いたものだったので、他人が見たらどうでもいい話もいっぱい書かれている。
 持ち込むのなら不特定多数の読者を想定してそれなりに書き直しをしなければ!
 急に目的をみつけた私は、せっせと日記のリライトを始めた。
 800枚の原稿は推敲されて600枚にまで凝縮された。

 そして、知人のつてをあたってあちこちの出版社に原稿の持ち込みを始めた。
 今考えればなんて世間知らずで無謀だったんだろうと思う。
 無名の人間が書いた闘病記なんて、知り合い以外にとってはなんの興味もないのだと痛いほど思い知らされた。

 特に「結局なんの病気だったのか」が一般の人にはわかりにくかったという問題も大きかった。
 「免疫がどうたら…」と説明したところで「それってどのくらい深刻な病気なの?」とめんどくさそうな顔をされて終わりだ。
 自分でも実際よくわからなかったのだからそう言われてしまうとそれ以上なにもいえない。
 中でも忘れられなかったのが、某大手出版社S潮社の編集者が言った言葉だ。

「がんだったらよかったんだけどね」

 正確にはこういう言葉ではなかったと思うが、私にはそう聞こえた。
 「闘病記といったら『がん』でしょう。それ以外の病気じゃインパクトに欠けて売れないよ」といったニュアンスの言葉だったと思う。

 結局『がん』も『がん』、しかもかなり珍しい難治性の『がん』だったわけだが、本人が知らなかったのだからどうしようもない。「がんじゃないとダメなのか…」とすごすごひきさがるしかなかった。

 もう治療は終わったんだから、そんなつらかった暗黒時代のことなんてさっさと忘れて楽しい未来だけを考えればいいじゃないか。
 そう思おうとしたが、この一年間はあまりにも重くて、これに匹敵するリアリティーなどそうそう簡単にみつけられそうになかった。
 大事な身内を亡くした直後に「そんなこと忘れて楽しいこと考えようぜ!」と言われてもできるわけないのと同じくらい無理だった。

 この一年間、自分は食べて眠るだけで精一杯の日々だったが、その間まわりの友達は次々に新しい仕事を始めたり、新しく家庭を持ったりして活動のエリアを広げている。
 そんな様子をずっと見てきて、「私だけ遅れをとっている」「どうしよう」とあせったことは何百万回もあった。
 が、こうして娑婆に出てみると、自分が「遅れた」のではなく、「無駄に進んでしまった」のだということに気づかされる。

 皆は一年前と何も変わっていなくて(変わったと思えるのは外的な要因だけだ)、自分だけがなんだかわからないけど一年前にいた場所から遠く離れた場所にきていて、いくら明るく元気にコミュニケートしていても、意識ははるか遠くをもやもやと浮遊している感じだった。

 今ほど「患者会」の組織が盛んだった時代ではなく、同じ体験を持つ仲間と違和感をわかちあうこともできなかった。
 まあ、あったところで正確な病名を告知されていないんだから所属しようもなかったが。

 あれほど焦がれた外の世界なのに、今となっては一番安心して本音を語れるのは医療関係者…という歪んだ精神状態になってしまっていた。


治療のアンコール

 ともあれ、4月の頭には最終的な検査(CT、ガリウムシンチ)も終わり、一応病院との縁が切れた私は職探しを始動した。
 職といってもフルタイムで働くつもりはもうなかった。
 治療が終わったとはいえ、当分は定期的に検査に通わなくてはならないだろうし、いきなり以前と同じように働ける自信はなかった。

 探したのはフリーの仕事だった。
 いずれはフリーになって書く仕事をしてみたいと考えていたので、予定のタイミングよりちょっと早くはなってしまったが、これを機に独立してみようと思ったのだ。

 まずは勤めていたときの先輩やら同僚やら上司やらつてをたどって、出版社、編集プロダクション、PR誌を出している企業などを訪ね歩き、リライトや資料のまとめなどの仕事を請け負うところからスタートした。
 平日は営業にまわり、土日で原稿を仕上げるというサイクルでだんだん人脈も広がってきた。

 ところが……。
 またもやここで水をさされるようなことが起きた。

 なんか文字が読みにくいなとは思っていたのだが、念のために眼科で診てもらったところ、2年前に白内障の手術をしたあとがまた濁ってきているというのだ。
 また濁るなんてことがあるのかと仰天したが、再発率は40%とけっこう高いらしい。
 一瞬、またあの強烈に痛い手術(無痛という人がほとんどだが、私は麻酔が効いているとは思えないほど悶絶するくらい痛かった)をするのかと思って真っ暗になったが、今度はレーザーで焼くだけなので簡単に済むという。
 視力じたいはそこそこ出ているので無理に手術しなくても…とも思ったが、やはり文字を大量に見る仕事で文字が見えにくいのは厳しい。
 外来でできるというので、折りをみて予約を入れるかな…と思っていたらさらに水をさされる出来事に見舞われた。

 夏目先生から「ちょっとこの検査受けてみてくれない?」と初めて受ける検査を提示されたのだ。
 その検査とは……今ではどこでも普通におこなわれている「MRI検査」である。
 当時はちょうど出回り始めたばかりで、受けている人もまだそれほどいなかった。
 先生によると、最後のCT検査でどうしてもまだひっかかる部分がわずかに上縦隔(両肺の間)付近に残っているのだという。
 それは治療のあとの残骸かもしれないし、生き残っている残党かもしれない。
 その区別はCTではつけられないため、MRIで確認したいというのだ。

 簡単な検査だからというので5月22日に受けることになった。
 ヨードアレルギーなのでCTのときはいつも造影剤はなしで検査していたが、このときは「これはヨードじゃないから大丈夫」と言われ、造影剤を入れられることに。
 が、何度も言うように、私の血管はそんな気軽に造影剤なんて入れられるようなものではなく、しかも足首の血管というとてつもなく痛い場所から入れようとされたため、そりゃもう痛いのなんのって「どこが簡単な検査だよ。大嘘つき!」と天を、いや夏目先生を呪った。
 結局3回もグリグリこねくりまわされて入らず「しょうがない。じゃあなしでやるか」と言われたときには「おい!なしでできるなら最初からそうしろや!」という言葉が喉まで出かかった。
 ちなみに、今では「MRIの造影剤は喘息患者には危険なのでやらない」というのが常識になっている。
 もしこのとき造影剤が入っちゃってたらそれはそれでこわいことになっていたかもしれない。

 1週間後、検査の結果を聞きにいったところ、非常に微妙な内容の宣告を受けた。
 「このへんにね、ちょっとね、ちょっと残ってるんですよ」
 夏目先生はもともと説明が驚くほどへたな先生だ。
 そのうえ正直に告知もできない状況なので、説明はどんどん要領をえないものになっていった。
 「このへん」ってどのへんなんだ。。。
 「残ってる」ってなにが?
 「ちょっと」ってどのくらい?
 聞けば聞くほど謎が深まっていく。

 あとでカルテを手に入れたときにこのあたりの事情も読んでみたのだが、ほとんどまともな情報が書かれていない。
 夏目先生だけではない。当時のカルテはどの先生もひどくいい加減で情報が少なかった。
 少ないながらも断片情報をつなぎあわせるとこういういことだったらしい。

 夏目先生は6月からは関連病院に異動になることが決まっていて、今後のフォローアップは上司である血液内科の白倉先生がおこなうことになっていた(ちなみに白倉先生は私が化学療法の副作用で苦しんでいるときに「副作用が強く出る人は効果もよく出る人だから大丈夫」と言った先生)。
 しかし(これは外から見た印象だが)夏目先生と白倉先生はあまり仲がよろしくないようだった。
 ここはけっこう今後の話の展開上重要になってくるのでおぼえておいてください。

 担当を離れることになった夏目先生は、「ちゃんと引き継いでくれるのかどうか」とても心配だったのだと思う。
 上縦隔リンパ節付近に残ったグレーゾーンは「黒」とするには決め手に欠け、さりとて完璧主義の夏目先生としてはどうしてもこれを放置したまま病院を去ることはできなかったのだろう。
 カルテ上で白倉先生にも一応相談をかけているが、白倉先生は「これ以上の治療は必要ない」という見解だった。
 結局、MRIも決定的な資料とはならなかったようだが、夏目先生は自身の判断で「放射線治療の追加」を決定した。


うやむやに終わった最後の治療

 あとからたどればこのような経緯があったわけだが、当時の私にしてみれば、すっかり社会復帰したつもりでいたのに、いきなり「このへん」とか「ちょっと」とかいう曖昧な言葉で再び治療にひきずり戻されるという、それはもう理不尽以外のなにものでもない出来事だった。

 運の悪いことに、このときJ堂医院の放射線治療室は工事中で、治療は浦安の分院にまで通わなければならなかった。
 毎日通うのは大変だろうから入院しろと言われたが、もう入院だけは心の底からウンザリだったので、浦安のビジネスホテルに泊まって治療に通うことにした。
 今度は仕事も抱えているので暇をもてあますこともない。
 ついでに再発した白内障のレーザー手術も浦安の分院で済ませることにした。

 このときの照射録を見ると、放射線治療は鎖骨上窩から縦隔にかけて合計30.4gy(1.6gy×19回)が照射されたことになっている(6月6日〜30日)。
 なぜこんなに半端な数字なのかというと、ある日唐突に治療が打ち切られたからだ。
 どういう経緯でそうなったのか理由はわからないが、途中でたいした説明もなく浦安のほうで「もういいですよ」と言われたことだけはたしかだ。
 そのときは「え、もう終わりでいいの?ラッキー」としか思わなかったが、今考えると随分いいいかげんな治療計画だと言わざるをえない。

 当時は放射線の専門医も少なく、どういう治療をどこに対しておこない、どうやって効果を評価するのか、そんなこともきちんと知らされることなく多くの人が放射線治療を受けていた。
 このあと私は放射線の過剰照射で人生をメチャクチャにされるが、過小照射にも問題はある。
 そもそもこのときにもっときっちり照射していればその後の再発も起こらなかったかもしれないし、なまじ少量しかかけなかったためにその後に大量にかけられたともいえるからだ。

 ともかく、私の悪性リンパ腫の治療はこの1989年(平成元年)6月30日をもって今度こそ本当に終了することになる。

 ここまでの話は「大変だったけど頑張って乗り越えたがん治療」の話にすぎない。
 他にも同じような経験をしている人はたくさんいるだろう。
 だが、ここから先は違う。

 医療関係者の方にはこの第1部の内容をふまえてこれからの展開を考えてほしい。
 いったい何がどこからどう間違ってしまったのか…。
 答えを教えてくれる人がいるなら今でも聞きたい思いだ。

<2013.02.11>

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登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
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※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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