闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(3)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.5 非告知の日

なかなか出ない「退院」の2文字

 1988年(昭和63年)6月28日火曜日。
 入院33日目。手術日から15日が経過した。
 4日目以降の回復はとても順調だった。

 術後4日目には点滴が3本になり、ワープロ日記を再開できるようになった。
 術後5日目には半分抜糸がおこなわれ、洗髪車で髪を洗ってもらえるようになった(ひきかえに首に激痛がきたが)。
 術後6日目には残り半分の抜糸もおこなわれ、夜中に出ていた咳も出なくなって安眠できるように。
 術後1週間で首を曲げて洗面することが可能になった。この日、ドレーンを切断してリンパ液他がたまるポシェット状の容器をはずす。
 術後8日目でドレーンを傷口から抜去。傷口の上下を複数のテープで寄せて貼る(傷口がきれいにつくように)。術後熱も下がり、体調も復活してきたので、この日から午後の散歩を始めるが、足よりも呼吸器のほうが弱っているようで、深く息を吸うとまだまだ傷口にひびく。
 術後9日目からは朝夕の抗生剤の点滴もなくなり、ブドウ糖の点滴一本に。
 術後11日目には完全に傷口がふさがったと判断され、入浴許可がおりた。

 ここまでくると気になるのが「退院」の2文字である。
 会社の同僚が見舞いにくれば「早く私もそっちに戻りたい」と思うのが人情だし、上司にいたっては「元気そうじゃない。もうそろそろ復帰できるんじゃないの?天皇陛下だって86歳のご高齢で手術してすぐにご公務に復帰されたんだからね」などとプレッシャーをかけてくる。

 が、こればかりは私が決めるわけにはいかない。
 最初は術後一週間あたりで退院できると聞いていたので、そのくらいのタイミングで先生に「退院」をほのめかしてみたのだが、「予定より深く切ったからまだダメ」と却下された。
 北原先生にいたっては「えー、なんで。もっとゆっくりしていきなよ」と完全に里帰りした子供と勘違いしているようなことを言っている。

 すぐにできないまでも「じゃああと2〜3日くらいのうちに」とか「週明けくらい」とか「××が終わったら」とかなにか目安があれば安心できるのだが、誰の口からも退院の「t」の字すら出ない。
 そうこうしているうちに月曜にはもうハネムーン休暇明けの南田先生が戻ってきてしまった!

 手術前日の回診では「もしかしたら今度帰るときには退院しちゃってるかもね」と言われ、そのときは「はぁ?あたりまえだろ。そこまで長居する気ねえよ」と内心思っていたのだが、まさかほんとにその日まで滞在することになろうとは…。


病理の結果

 そしてこの日、新しい動きがあった。
 病理の結果が出たのだ。
 南田先生と西谷先生が午後の回診で結果について説明してくれた。

 「手術で摘出した腫瘤を病理で調べた結果、悪性リンパ腫でした」

 というのが正解だったが、このときはすでに先生と両親の間で「本人に告知はしない」という話し合いがなされていたため、私には以下のように伝えられた。

 「手術で摘出した腫瘤を病理で調べた結果、去年と同じで悪性ではなく、『原因不明のリンパ節炎』だった。ただ、炎症がかなり広範囲に散らばっており、手術だけではとりきることができなかったため、術後の血液検査でもまだ炎症反応が続いている(微熱が続いているのもこのせいかもしれない)。このまま放っておけばまた同じ事を繰り返す可能性がある。ついてはこれから内科に移って原因を徹底的に調べて治療してもらってほしい」

 正直、医学的知識が皆無だった当時の私としては「切れば治療は終わったも同然」だと思っていたので、「内科へ移れ」と言われたのは非常に予想外だった。
 切ったものを病理で徹底的に調べることの重要性もまだいまひとつわかっていなかったので、悪いものだったとしても「切った」んだからもういいんだろう、くらいに思っていた(今でも同じように考えている人は大勢いるかもしれないが)。

 「なにしろ僕ら頭のない外科医だからさ、原因まではわからないんだよね。切るしか能がないからさ。ま、そういうことで、ゆっくりしてってよ」と自虐ネタをかます西谷先生。
 南田先生は「今度からワープロに書かれますよ。『また頭のないやつらが回診にやってきた』って」とうれしそうに笑いながら西谷先生と部屋を出て行った。

 この瞬間から私のがん治療はスタートした。
 本人だけが知らないままで……。

<2013.01.14更新>

vol.6 内科へ

一気に遠のく退院

 その翌日、初めて内科の先生の回診があった。
 今度の担当医は夏目先生というニコリともしない男の先生で、その下についている研修医が秋本先生という若い女の先生だった(北原先生と同期で、私と同じ年齢らしい)。
 今後の治療には膠原病内科があたるという。

 外科の先生はふざけてばかりいたが、内科の先生は常にマスクをしていてよけいな冗談ひとつ言わない。
 特に夏目先生の愛想のなさは徹底していた。

 一番気になるのはあとどのくらい入院しなければならないのかということだったが、夏目先生を通して秋本先生から伝えられた言葉は覚悟をはるかに上回るものだった。
 「はっきりしたことは言えないんだけど…」
 言いにくそうに前置きしながら秋本先生は続けた。
 「あと2ヶ月くらいは…」

 2ヶ月?!

 思わず絶句した。
 ショックを隠し切れない私に気を遣ったのか、それから秋本先生はしきりに病室に顔を出しては空気を盛り上げようとしてくれた。
 大学時代、アイスホッケー部のキャプテンだった南田先生がリーゼント頭だったとか、夏目先生は一卵性の双子でまったく同じ顔で違う大学病院でやっぱり医者やってるとか、ほとんどどうでもいい話だったが、笑っているうちに秋本先生とも打ち解けるようになってきた。

 ちなみにこの話を聞いた北原先生は「廊下ですれ違うとき困っちゃうよね。本人なのか兄弟なのかって考えこんでるうちに挨拶しそびれちゃって」とうれしそうに言っていたが、「話きいてました?違う病院勤務ですよ」と言ったらすごく楽しみを奪われたような顔をしていた。


恐怖の骨髄穿刺

 7月6日水曜日。
 入院41日目。手術日から23日が経過したこの日、外科病棟から内科病棟に引っ越しをした。
 一階違うだけで作りも同じだが、廊下に出て歩いている人が少ないし、お年寄りの姿も目立つし、なんだか外科とは随分違う様子だった。

 先生も顔色が悪く、覇気のない感じの人が多かったが、ナースの雰囲気もまた外科とは違う。
 たとえば、この日は午後に「骨髄穿刺」というなんともおそろしげな字が並ぶ検査を受けることになっていたが、昨晩この知らせを持ってきた外科病棟のナースは「まあ、ちょっと痛いけど大丈夫!すぐ終わるから…ていうか、病院にきてまったく痛い目に遭わないで済むとか無理だから!」とカラカラとした笑顔で去って行った。
 外科のナースはこんな感じだが、内科のナースはもっと繊細だ。やはり切ってすぐに出て行く患者ばかりを相手にしているナースとは違う。

 秋本先生は「骨髄穿刺」についてなにもコメントしようとしない。
 外科のナースのコメントと合わせて考えるとあまり愉快な検査ではないんだろう。
 こういう得体のしれない検査が午後にあるというのは非常に趣味が悪い。

 午後2時。ようやく検査の時間になる。
 検査は病室内でできるものだが、終わったあとに2時間ほどの安静が必要になるらしい。
 病室に入ってきたのは、夏目先生、秋本先生、北原先生、麻酔科医1名、ナース1名の計5名だった。

 まずボールペンで上から骨髄のあたりにマーキングをする。
 次に目隠しをされる。
 目で見るとかなりこわいらしいので目隠しをするというのだが、見えなければ見えないでまたべつのこわさがある。
 ここから先は「視覚」なしの実況だ。

 「じゃあこれから麻酔の注射をします」という夏目先生の声。
 針を刺す感触。
 続いてひりひりと薬がしみわたるような刺激。
 その後、針を刺したあとを酒精綿でよくもみほぐす。
 皮膚が硬くなったような感覚がじわっと広がっていく。
 「次、ちょっと押される感じしますよ」という夏目先生の声。
 ここでかなり太い針を入れられたようだが、麻酔が効いているので刺されたときの痛みはない。
 ただ、刺したあとにねじのようなものでギリギリと針を固定しているらしく、その圧迫感がすごい。ねじを締め付けられるたびに肩甲骨にまでミシミシと亀裂が入るような感じがする。

 そしてクライマックス。
 「次は引っ張られる感じがしますからね」という声とともに、中の髄液が吸い上げられる。
 胸の奥の方から一気にジュッと吸い上げるような鈍い痛みがズシンッとくる。
 が、たしかにそれは一瞬で終わった。

 所要時間は15分程度。
 目隠しをとられ、止血のために傷口の上に砂嚢が置かれた。この砂嚢は30分たったらどかしていいそうだ。
 終わったあとの痛みはなかったが、引っ張られる瞬間の薄気味悪い痛みの余韻がまだ頭に残っていて離れない。

 あとで聞いたところ、「夏目先生はうまいからいいけど、下手な先生だと何回もやり直しする」らしい。それはたまらん〜。
 さらに秋本先生いわく「今日の夏目先生は気味が悪いほどやさしかった。麻酔も念入りだった気がする」。
 ナースも同意して「ですよね。あんないちいち『大丈夫?』なんて確認しませんよね」。
 どうやら夏目先生はかなりこわい先生らしい。

 とにかく一番大変な検査が終わった。
 この他、腹部エコー検査、呼吸機能検査、腹部CT検査をこなし、8日の金曜日から2泊3日、初めて一時外泊をする。


治療の説明

 7月11日月曜日。
 外科的にはもう問題がないので形式的ではあるが、午前中に教授回診がある。
 「大きいねえ。身長何センチあるの?」とダンディな中岡教授が質問する。
 ……それ、このあいだも聞いたけど。と思いつつ「165.5センチです」と同じ回答をする。
 教授が去ったあと、南田先生と西谷先生が「身長は聞いても体重は聞かない。さすがに教授はジェントルマンだ」とほめたたえる。
 「どうせカルテに書かれてるはずだからわかってるんでしょ」とつっこんだら、「だからそこがジェントルマンだと言ってるんだ」と開き直られた。
 たしかに私の体重は西谷先生より多いよ。
 だからといって毎回ネタにするか?
 外科レベルでジェントルマンとか言われてもね。

 夕方、夏目先生と秋本先生が来て、翌日からの治療について説明がおこなわれた。
 実際の病名は「悪性リンパ腫」。しかも日本人にはきわめて珍しいと言われるホジキンリンパ腫(日本人はほとんどが非ホジキンリンパ腫)でステージ2A期だった。
 簡単にいえば血液のがんだが、一般的に血液系のがんには化学療法が非常によく効くと言われている。
 しかも再発すると治療の選択肢がどんどん減っていく。
 というわけで、初期治療で完膚無きまでにがんをたたきのめすというのが当時の先生の方針だったと思う。

 もちろん、がんも自分の一部であるから、がんをたたきのめすということは自分自身をたたきのめすということでもある。
 将来、卵巣の機能に影響が出るかもという話も両親にはされたらしいが、「治療しなければ5年生存率が3割」と言われたら誰だって承諾するに決まっている(念のため言っておくと、今はそこまで予後の悪い病気ではない。あくまでも当時の話だ。しかもホジキンは症例が少ないだけに先生もかなり慎重だった)。

 しかし以上の話はあとから自分で調べてわかったことであり、そのときの私に告げられた説明は以下のようなものだった。

 「あなたはアレルギー体質。アレルギーは免疫が過剰に働いてしまう体質なので、自己免疫疾患に非常に近い。今はなんらかの原因で免疫が亢進したまま元に戻らなくなっている状態。だから頻繁にリンパ節炎が起きる。これからその免疫機能を下げる治療をする」

 つまり「抗がん剤」ではなく「免疫抑制剤」だと説明したのだ。
 免疫をおさえるから一時的に具合が悪くなる。
 白血球の数も減るし、抵抗力が落ちてだるくなったり、食欲がなくなったり、中には髪が抜ける人もいる。
 でも治療が終われば免疫の機能も正常になるし、病気も必ず治る。
 だから頑張って乗り越えよう!
 ……というのだ。

 夏目先生の説明はうまいとは言えなかったが、真剣さは伝わってきた。
 愛想は悪いけど、ハートは熱いというのが最近わかってきたので、自分なりに先生に対する信頼は増してきていた。
 いろいろ不安はあったけれど、「やるしかない」と腹をくくった。

<2013.01.18更新>

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登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
名前をクリックすると初登場記事にジャンプします。
※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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