闘病、いたしません。/第2部●再発(2)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.3 危険な放射線医

再発の重み

 1991年(平成3年)10月7日月曜日。
 私は2年ぶりにJ堂医院に入院した。
 病棟の担当医は赤司先生という30代後半くらいの先生で、その下についている研修医(レジデント)は青柳先生という20代後半くらいの先生だった。
 今回は7人の大部屋だったが、膠原病の患者さんが多いようだった。

 私は4人サイドの一番入口に近いベッドだったが、隣のベッドの人が仕切りカーテンを思いっきり閉めるため、狭いだけでなく、風も光もほとんど届かず、私だけ荷物置き場に寝かされているような気分だった。

 部屋の環境のことだけでなく、なんだか今度の入院はいろいろな意味で最初の入院とは違って、初日から精神的にどっと落ち込んだ。
 やはり「再発」という言葉の重みがのしかかっている。

 前回のときは、治療を終えればそれがゴールだと思ったからどんなことでも頑張れたが、それからわずか2年でこんなことになるとは…。
 この2年間で私は精一杯努力し、自分の基盤を一から築いてきたつもりだ。
 それが今回の入院で全部ご破算になってしまう…とまでは思わないが、それでもかなり脱力してしまった部分があることは確かだ。

 これから先、こんな調子で健康な生活が数年間ずつしか続けられないのかと思うと(医者はそんなことはないと言うだろうが、現にこれで終わりと言いながらたった2年で再発しているし)、先の見通しなどたたないも同然で、何をしようとしても空しいし、何をする気もおきなくなった。
 前回の発病から今日の日までずっと頑張り続けてきた疲れが一気に出てきてしまったようだ。

 入院翌日。
 X線写真(胸部2枚と腹部2枚)と心電図の検査を行う。

 赤司先生から「おそらく今回は放射線の治療だけで大丈夫だと思うが、しこりが非常に小さいし、患部も柔らかいので、超音波だけの情報で放射線治療を始めるのは難しいと思う。もっと詳しい情報を得るために首のCTをとってから治療を始めたい」と言われる。
 化学療法はしないで済みそうだときいてかなりホッとする。

 今後の予定としては、11日に放射線科の診察があり(この日にいつから治療を始めるか決めてもらう)、12日に腹部の超音波検査、16日に首のCT検査、19日に腹部のCT検査、26日にガリウムシンチ注射、28日にガリウムシンチ撮影…とのこと。
 多分放射線の治療は16日のCT検査が終わってから始めることになると思うので、12日の午後から15日までは家に帰ってもいいと言われる。

 「必要ない」と却下されたガリウムシンチがいつのまにか復活していることにまず驚いた。
 治療がいつからスタートするのかわからないが、こういうのって治療の前に検査しなければ意味ないんじゃないの?
 8月に再発と言われてから今までこんなに時間があったのになぜそれまでに検査を入れられなかったのか。
 それにまた腹部の検査が2回も入ってるし…。
 今まで一度も異常が出たことがないのになぜこれほど執拗に腹部の検査をするんだろうか。

 案の定、母がこの検査予定を聞いて気色ばんだ。
 「腹部CTは9月にもやったばかりで、そのときも異常はないと言われたのに、治療前に二度やる意味がわからない。今回の治療にお腹は関係ないはず。無駄にレントゲンなんてかけない方がいい」という。
 じゃあ、赤司先生にそう言ってきたら?と言ったら、本当に言いに行ってキャンセルしてきてしまった。

 外来の冬木先生と病棟の赤司先生がどの程度連携がとれているのかわからないが、検査のオーダーをみてもあまり通じ合っているとは思えなかった。
 なによりも、冬木先生は入院してから全然病室に顔を見せない。
 3日目の教授回診のときに1回だけちらっとまわってきたが、相変わらず何を聞くわけでもないし、説明があるわけでもなかった。


早められた治療のスタート

 10月11日金曜日。
 入院5日目。
 放射線科から呼び出しが来て、黒崎先生という年輩の先生の診察を受ける。
 なんだか随分横柄な態度の先生だった。

 今日は診察だけだと聞いていたのに、なんの説明もなく、いきなり定規とマジックを手にした先生に治療のための印をグシグシつけられた。前に浦安でやった時はもっと機械を使って正確に計測したのだが、こんなアバウトな目測で大丈夫なんだろうか……としょっぱなから不安になる。

 マーキングが終わったあと、黒崎先生はカルテにペンを走らせながらこれまたいきなり「早く終わらせたいでしょ」と聞いてきた。
 うっかり「はあ、それはもう」と答えたら、「じゃあそうしましょう。ちょっと喉が痛くなるけど我慢してね」とか言い出すので、あわてて「いや、別にそこまでして早くしてもらわなくてもいいんですけど」と言ったら、「大丈夫。若いから」の一言で片付けられる。
 不安そうな顔をしたら「まあ、具合が悪くなったらペースを落としますから言ってください」と言われてよけいに不安になる。

 帰り際に看護師さんから「じゃあ、治療は月曜から始めますから」と言われてまたびっくりする。
 「えっ。火曜にCTの予約が入ってるんですけど。治療はCTの結果を診てからじゃないんですか?」と聞いたら、「CTの結果を見なくても始められるという先生の判断ですので」という。
 いたずらに治療のスタートを延ばしたいわけではないが、これだけ検査の予約が入ってるのにすべて無視して治療をスタートさせるというのは「見切り発車」という印象が拭えなかった
 なによりも赤司先生の言うことと情報がいちいちまったく食い違うことに大きな不安をおぼえた。

 のちにカルテでこのあたりの経緯を確認したところ、目を疑うような記述が出てきた。
 これを見たときの衝撃はうなされそうになるほどで、今でも頭に焼き付いて離れないので、ここは保全したカルテのコピーをそのまま載せる(赤ペンはこちらでチェックした印)。

P1110545.JPG


 正確にいえば、これは黒崎先生が書いた記述ではない。
 「黒崎先生に意見をきいたらこう言ってました」という伝聞の形で赤司先生が書いた記述だ。
 にしてもこれはひどい。
 言う方も言う方だし、書く方も書く方だ。
 双方ともに神経を疑う。

 「Neck CT等はあまりはっきりわからないだろうし、Hodgkinなんだからradiationどんどんした方がいいでしょうとのこと」

 要するに、この患者は造影剤が使えないし、造影なしで首のCTなんて撮ったところでどうせ決め手となるような情報は得られない。だったらそんな検査の結果を待つ必要なんてない。ホジキンなんだから放射線治療はどんどん積極的におこなうべきだ。
 ということだ。

 多分、黒崎先生は自分のキャリアと勘に絶対的な自信を持っていたのだろう。
 確認なんて触診で充分。あとは広めにかけておけば安心。くらいに思っていたのだと思う。
 これは大げさではない。
 その後の現実を見れば大げさでもなんでもないことがはっきりわかる。

 同時期に私と同じ目に遭った人は他にも相当数いるはずだ。
 そして病院はその事実をできる限り隠蔽しようとしている。
 なにしろ放射線の影響は今日かけて明日ただちに出るというものではない。
 手術の失敗などに比べたら、いくらでもごまかしがきくものだ。
 そもそも放射線治療は一人の医師が責任を負いきれるようなものではない。
 「ナントカに刃物」ではないが、こんな医師に放射線を扱わせていいのだろうか?

 とにかく、14日の月曜から放射線治療がスタートすることになった。
 治療は月曜から金曜までで、土日はお休み。
 だいたい毎日11時前後に治療のための呼び出しがあり、週に1回は黒崎先生の診察があるらしい。
 回数は全部で20回ということだった。

 この日、冬木先生が二回目の回診に来たが、廊下で待っていた伯母から逃れるようにそそくさと去っていった。
 もしかして母と間違えているのか?
 冬木先生は母をやたらにこわがっていて、いつも母が来ているかどうかを異様に気にする。
 たしかに伯母はよく母と間違えられるのでありえる話だ。

<2013.02.18>

P1110515.JPG

登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
名前をクリックすると初登場記事にジャンプします。
※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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