闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(2)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

HOME > Diary > 第1部 悪性リンパ腫(2)

vol.3 昭和時代の全麻手術

手術前カウントダウン

 1988年(昭和63年)6月13日月曜日。
 入院18日目、ようやく手術がおこなわれることになった。
 今考えるとけっこう危険な手術だったんだと思う。
 なにせ「昭和時代末期」の話である。
 当時の手術体験の記録というのもなかなか貴重かもしれない。

 執刀医は外来から診てくれた中岡教授があたることになった。
 中岡教授の専門は肝臓だが、医局では神様的存在らしい。
 日本人離れした体格のよさといい、ダンディーな風貌といい、なんかもうドラマに出てきそうなかっこよさだ。
 北原先生は「白衣を脱げばただのおじさんなんだけどね」と大胆なことを言っていたが、白衣を着ているところしか見たことのない私にとっては充分「カリスマ外科医」だった。

 その他、手術室に入ることになったのは、西谷先生、北原先生、李先生の3人。
 担当医のはずの南田先生はなんと私の手術日前日の日曜日に結婚式をあげ、そのまま2週間の休暇に入るため不在になるという。じゃあ最初から担当するなよという感じだが、南田先生不在中は先輩の西谷先生が私の担当医をつとめることとなった。

 初めての全身麻酔手術に不安を募らせる私と家族を安心させようと、北原先生は頻繁に病室に足を運んでは「大丈夫。教授の手術の腕は一流だから!」「心配しないで!」と繰り返したが、言ったあとにVサインを出されたときには違う意味でまた少し不安が募った。

 手術前のカウントダウンは2日前から始まった。
 まずは、麻酔科医の予備調査と手術当日の段取り説明。そして「ベッド上での排尿練習」。
 手術翌日は一日中絶対安静なので、もちろんトイレに起きることもできない。
 そのときはベッドに寝たまま排尿することになるので、その練習をしろというのだ。
 お尻の下におまるを差し込み、あおむけのまま出すんだけど、いやー、これがねぇ……出ないんですよ。考えてる以上に出ない。
 角度的にこれ出ないでしょ。って感じの体勢だし。
 もちろん、シチュエーション的にも拒否反応があったし。
 尿意を感じてから実際に出せるまで30分くらいかかってこれだけですでにぐったり。

 手術前日にやったことは手術部位の剃毛。私の場合は首だ。消毒の際の邪魔にならないように産毛までいちいち剃る。
 このとき剃毛に来たナースがすごくぶきっちょだったこと、カミソリの刃の切れ味がいまいちで手術前からいきなり傷をつけられたことは今でも忘れない(ただでさえ首にカミソリってあんまり気分いいものじゃないのに)。

 寝る前には下剤を服用(腸を空にするため)。
 翌日から当分動けなくなることを考え、身辺を整理し、コンタクトレンズのお手入れ方法なども家族に伝授する。

 当日は着脱ぎがしやすいように浴衣を着用。
 コンタクトもはずす。
 朝食はもちろん抜き。

 朝9時にルート確保のための点滴スタート。
 20Gという3番目に太い針を入れなければならないため、研修医3人が役割をおしつけあっていたのも今となってはいい思い出だ。
 結局2回失敗され、自称名人・西谷先生が呼ばれるが、さらに1回失敗。
 4回目に今まで未開拓だったエリアから血管の発掘に成功。
 北原先生は「よくこんなになにもないところからみつけるなー」と感服し、新しく開拓されたこのラインを「西谷ライン」と命名した。


最大の難所

 ここから先が長い。
 ただひたすら待つ。
 待てば待つほど緊張が高まっていく。
 これほど時間が長く感じられたことはなかった。

 そして12時。
 地獄の時間がやってきた。
 このときのことを思いだすと、今でもPTSDってこういうことをいうのかな…と思うほどつらくなる。
 その出来事とは……胃管挿入!

 当時はただ「手術中に胃にたまった液や空気を抜くために鼻から管を通す」「管を入れるのは手術の前」「ちょっと苦しくて大変かも v(≧∇≦)v」というくらいの情報しかなかった。
 情報がなかったからまだよかった。とも言えるが。

 胃管挿入をおこなったのは北原先生だった。
 北原先生には申し訳ないが、「なぜ北原先生なんだろう…」と思った。
 こういう手技は経験によってかなり差が出るもののはずで、新米の研修医が自信なさげな顔しながらぶっとい挿管チューブ抱えて病室に入ってきたときにはこっちも心細さでどうにかなりそうだった。

 そもそもルゴールを喉に塗られるのも耐えられないくらい、喉に触られるのが苦手なのに、鼻から喉まで管を入れられるなんて考えただけで卒倒しそうだ。
 ちなみに「麻酔」もなし。のどに麻酔をしてしまったら、自分の力で飲み込むことができなくなるので。

 まず、チューブを鼻から入れてグイグイ裏までねじ込む。
 ここまでは苦しくても先生が押し込んでくれるので、こっちは受け身で我慢しているだけでよかった。
 問題はその先だ。
 「ここから先は自分の力で飲み込まないと先へ進めない」というのだ。
 喉さえ通過すればあとは自然に胃の中まで降りていくから、苦しいのは一瞬だから…と先生は言うが、実際はそんななまやさしいものではなかった。

 唾を飲み込むタイミングで、すかさず蓋が開いた食道内に管を押し込むのだが、タイミングが合わないと管の先が口の中でとぐろを巻いてしまう。それをまた戻してやり直してまたとぐろ…という繰り返しで、その苦しさたるやまさに「臨死体験」だった。
 自分の意志としては飲み込もうとしているのだが、体が拒否してものすごい勢いで管を押し戻してくる。その力に自分でびっくりする。
 チューブの匂いが喉から鼻にかけて充満し、苦しさのあまり白目をむいてバタバタともがく。
 「飲み込んで!もう一回!頑張って!」という先生の声だけを支えに、全身の力をふりしぼって何度も何度も押し戻されるチューブを飲み込んだ。

 気がつくと嵐が通り過ぎたように静かになった。
 無事、チューブが喉を通ったらしい。
 実際、苦しんだのは30秒くらいだったのかもしれないが、終わったあとは精根尽き果ててもう身動きする力もなかった。

 ここで皆さん疑問を持たれたのではないでしょうか。
 なぜ意識のある状態でやらなければならないのか。
 私もそれがずっと疑問だった。
 いろいろ調べたが、要するに、麻酔をかけたあとにおこなうことも可能だけど、無意識下では嚥下(自分で飲み込む)動作ができないので、その状態で胃まで管を入れるというのはとても難しい。患者的には寝ている間にやってほしいけど、やるほうは起きてるうちにやるほうが楽かつ安全ってことらしい。
 おそらく、今は麻酔後にするのがほとんどだと思うが(全身麻酔でも胃管の必要のないケースもあり)、当時は技術的にまだ「ごめんね。ちょっと苦しいけど一思いに飲んじゃって」というケースのほうが多かったのだろう。

 どちらにしろ、医療行為というものは昔であればあるほど危険も大きいし、苦痛も大きい。
 病気をするならなるべく年取ってからがいい…と思うのはこういうときだ。


全麻の不思議体験

 挿管が終わったあとは、お尻に鎮静剤を打たれ、ストレッチャーで手術室へ移動。
 午後1時に手術室に到着。
 準備室でキャップを被せられ、身ぐるみ剥がれてシーツでくるまれ、手術台に乗せられる。

 この時点ですでに意識は半覚醒状態だ。
 体の力は電源がきれたみたいにオフ状態になり、頭からつま先まで磁石のように手術台に張り付いている。

 意識はある。人が動いているのもしゃべっているのもわかる(コンタクトをはずしているのでアバウトにしか見えないが)。
 ただ、目の前の光景と自分との間に不思議な距離感があって、現実ではないもののように感じられる。自分に関係ないものがそこにあるって感じ。

 一番はっきり憶えているのは、数日前からさっきまであれほど緊張していたのに、このときは「恐怖感」がまったくなかったということだ。
 声とか物音が遠くに聴こえるのがなんとも心地よく、胎児になったような気分。
 こういうふうに死ねたらいいなーとうすぼんやりした頭で思った。

 右腕に圧迫感を感じる。
 血圧計が巻かれてるらしい。
 「120-70です」というナースの声が遠くで聴こえる。
 右側から「だいぶウトウトしてきたでしょ」という西谷先生の声。
 続いて左側から「大丈夫だからね」という北原先生の声。よく見えないけどまたVサインを出してるのかもしれない。
 最後に執刀医の中岡教授の「これでだんだん眠くなりますからね」という声が聴こえた次の瞬間、点滴のラインを通してヒリヒリとした血管痛を感じた。
 意識を失わせる最終段階の麻酔薬が入ったらしい。
 ドラマとかだとー、次にマスクとかかぶせられt×●※□!…。

 唐突に思考がとぎれた。
 ……そして次の瞬間、私は集中治療室にいた。
 フェードインとかアウトとかではない。意識が終わった瞬間と戻った瞬間はピッタリ重なっていた。
 濃度も同じだった。テレビの電源を「入切」するように、突然終わって、突然始まった。

 こういうのって普通は名前とか呼びかけられて眼を覚ますのだと思っていたが、誰も声をかけてくる様子はない。
 呼びかけられて眼を覚ます瞬間ってどんな感じなんだろうってちょっと楽しみだったのでがっかりしたが、じつはもうすでにその儀式は終えられていたことがあとでわかった。

 手術が終わり、麻酔の量を徐々に減らしていくと、再び患者は自発呼吸を始める。
 そこで麻酔科医は呼吸が戻ったことと、名前を呼んで患者が答えるのを確認したあと、気管に入った管を(ついでに鼻から入った管も)抜くわけだが、私はその瞬間のことを憶えていなかったのだ。
 たしかに気がついたときにはもう管はなかった。
 管を抜かれたときのことを憶えている人もいるらしいので、これは麻酔科医の手技のタイミングや患者のコンディションによって個人差があるのかもしれない。

 意識が戻ってみると、いろいろなものが体につけられていることに気づく。
 まず、尿道から尿を排出する導尿カテーテル。
 そして足首の内側からもう一本点滴のライン。
 そのときは身動きできなかったので気づかなかったけど、傷口にはドレーン(傷口にたまる体液を外に排出する管)と呼ばれるチューブもつけられていた。

 最初に感じたのは強烈な「喉の渇き」だった。
 水が飲みたくて「水」と声に出そうとしたが、声がかすれて出ない。
 挿管された後遺症らしい。
 すぐに看護師さんに「まだ完全に麻酔から覚めきってないから我慢してね。誤飲すると危ないから」と声をかけられる。
 口の中を湿らせるだけでもいいから…と伝えたかったが、声を出すのが苦しくて長いフレーズがしゃべれない。

 それから翌日の朝まではひたすら眠り続けた。
 いや、「途切れ途切れに眠った」というほうが正確か。
 眠ったと思うと、傷口の焼けるような痛みと、喉の渇きと、吐き気(おそらく術後に使う強い鎮痛剤の副作用)が交互に襲ってきて、眼が覚めてしまう。
 そのたびにナースコールを押して、痛み止めの注射を打ってもらったり、吸い飲みでうがいをさせてもらったり、胃を氷で冷やしてもらったりするのだが、楽になるのは一瞬だけで、また同じ症状が襲ってくる。

 特に耐え難かったのは「吐き気」だった。
 胃の中は空っぽなのに吐き気は延々と収まらず、酸素マスクのビニールの匂いは挿管の苦しさを思いださせてさらにムカムカした。

 自分の胃液の匂いに苦しめられつつ、何度も寝たり目覚めたりを繰り返しているうちにようやく長い一夜が明けた。

<2013.01.07更新>

vol.4 術後3日間

排尿地獄の1日目

 手術翌日。
 目が覚めると看護師がやってきて「洗面をしましょう」という。
 首を切っているので、首が動かせない。
 首が動かせないということはほぼ「身動きできない」のと同じだ。
 かろうじて右手は動いたが力がうまく入らない。
 寝たままヨロヨロと歯を磨き、吸い飲みで口をゆすぎ、膿盆(ステンレス製の受け皿)にペッと吐き出す。
 しないほうがましというくらい気持ち悪かった。

 看護師さんに「朝ご飯は出るんですか?」ときいたら「マジでこいつ食うのか」って感じのバケモノを見るような目で見られた。
 べつに食べたかったわけではない。
 南田先生が「術後は翌日からご飯が食べられるからね」と言っていたのを思い出し、こんな状態でいきなり普通食が出てきたら泣く!と思って不安になったのだ。
 どうやら今日はまだ流動食らしい。

 9時半に回診がある。
 この時点で足の点滴と導尿の管がはずされた。

 10時半に集中治療室から自分の病室に戻る。
 首を動かすのもベッドの上に起き上がるのもダメと言われたが、言われなくても両方できない。
 相変わらず胸はムカムカするし、頭痛はひどいしで、自分の体とはとても思えない状態だった。

 11時半に「水分摂取許可」が出る。
 吸い飲みでジュースを飲んでみるが、自分の胃液の味のほうが強かった。
 ジュースを飲み終えたところで尿意を催した。
 ここで手術前の訓練の成果の出番だ。
 非常時ならば出るんじゃないかと期待したが、やっぱり「寝たまま排尿」のハードルは高い。
 出るまでに20分かかった。

 …のに、出してから20分後にまた尿意が…。
 点滴入れっぱなしなのでどうしても回数が増える。
 今度は15分かけて出す。

 午後は「トロトロ眠る」→「尿意で覚醒」の繰り返しだけで時間がすぎていった。
 こんなにつらいなら導尿の管を抜かないでくれればよかったのに…と思ったが、感染の危険があるので管はなるべく早く抜く方針らしい。

 夕食には重湯とオレンジジュースとミルクセーキが200ccずつ出てきたが、半口ずつくらいしか飲めず。

 7時40分。昨日の朝から入れっぱなしだった点滴が抜かれる。
 夜中も首の痛みと尿意とで何度も目が覚めて安眠できなかった。


傷口痛と筋肉痛のコラボ

 手術翌々日。
 やはり洗面は寝たままだったが、この日の看護師は歯ブラシと膿盆を枕元に置いたまま出ていってしまった。
 とれるわけねえだろ!
 看護師といえども気がまわらない人はとことんまわらないんだな。

 担当医から「今日から立って歩いてもよい」という許可が出て、歩いてトイレに行けるようになる。
 とはいっても、首に力が入らないので起きるときと寝るときは介助が必要。
 結局、2回は看護師さんを呼ばなければならず、手間としては変わらないのだが、「寝たまま排尿地獄」から解放されただけでもありがたいと思わなければなるまい…。

 食事もこの日からは普通食が出る。
 「胃腸はもう正常に動いているはずですから、なるべく食べるようにしてください」と言われるが、まだ胸がムカムカしていて食欲は皆無だし、手にも力が入らない上遠近感がおかしく、お箸がうまく使えない。
 ほうれん草と牛乳を数口入れたがギブアップ。

 10時。清拭を終えたあとに回診。
 傷口を固めていたギプスのようなものがはずされ、傷口の消毒をおこなったあとガーゼ交換。
 神経をかなり切ったらしく、二の腕や胸のほうまで感覚がない。

 10時15分。蒸気の吸入15分。
 手術中は人工呼吸の管を気管に入れているため、術後は気管が腫れて痰がつまりやすくなっている。
 放っておくと肺炎を起こす危険もあるため、痰をきりやすくするように蒸気の吸入を朝と夕方の2回おこなう。

 11時。北原先生が点滴を入れにくる。
 今日のお品書きは抗生剤→ブドウ糖2種→抗生剤というコース。

 12時。お昼もほとんど食べられなかった。
 お粥にしてもらったが、いざ食べようとするとお粥はもっと食べられなかった。
 卵焼き、煮付けなどを数口食べ、あとは買ってきてもらったゼリーを食べた。

 ここで初めて家族に手伝ってもらってコンタクトを入れる。
 白内障の手術をしているので、コンタクトなしでは何も見えず、眼鏡では視野が狭すぎてかえって気持ち悪くなる。
 コンタクトが入ったらそれだけで随分落ち着いた。

 昨日よりは少し起きていられるようになったので、母から手術のときの話を聞いた。
 炎症は思った以上にひどく、手術時間も当初の予定であった2時間を倍以上もオーバーし、終わったときは5時半をまわっていたらしい。

 6時。夕食が出る。
 お昼よりは食べられるようになったが、それでも半分くらいは残す。

 7時半。母がいるうちに洗面を手伝ってもらうが、まだまだ続けて立っているとめまいと吐き気に襲われるし、動くと息切れもひどい。
 トイレに行って洗面をしてコンタクトをはずしただけでたっぷり20分かかり、汗だくになった。

 9時15分。ようやく4本目の点滴が終わる。
 所要時間10時間25分。長かった。

 この日は悪夢にうなさて夜中に何度も目をさました。
 気管支が炎症を起こしているらしく、咳がとまらず苦しい。咳き込むと傷口にひびいてとびあがるほど痛い。
 またずっと傷口をかばって変な力が入っているのか、首から肩にかけての凝りがひどい。
 傷口の痛みと筋肉痛のコラボレーションといった感じだ。

 結局、我慢できずにまた痛み止めの筋肉注射を打ってもらう。
 すごい効き目だった。
 みるみるうちに筋肉がふわーっと軽くなる。
 効きすぎて夜中にトイレに立てなくなったほどだ。


いきなり青椒肉絲

 術後3日目。
 6時半。看護師がドレーンをチェック。これから毎朝計測し、傷口からの出血がなくなったらはずすそうだ。

 10時。消毒とガーゼ交換。
 10時半。北原先生が点滴に来る。今日も4本コース。

 術後、あきらかに自覚できる「回復」が感じられたのはこの日だった。
 相変わらず一人では起き上がれないし、咳は続いていたし、筋肉痛は泣きたいほどひどいし、首は動かないし、左腕は動かないし、歯茎は痛いし、絆創膏はかぶれるしで不快なことだらけだったが、傷口の痛みや気分の悪さはかなりとれてきたし、体にも少しずつ力が入るようになってきた。

 なによりも顕著だった変化は、昼まではまだサラダとヨーグルトくらいしか食べられなかったのに、夕食にはいきなりかき揚げと青椒肉絲を食べたことだ。
 これには自分も驚いた。

 なんというわかりやすい目安だろう。
 人間の回復力というのはこのように突然スイッチが入ったように作動するものなのだろうか。
 食べられるようになったとたん、むくむくと気力が回復してきた。
 昨日まではただただつらくて、早く1日がすぎてくれることだけを願っていたのだが、今日は「明日は××をしたい」と考えられるようになった。
 この日からは日記のメモも自分でつけられるようになった(手術日からは家族につけてもらっていた)。

 そして初めて痛み止めの注射なしで眠れるようになり、寝返りも少しだけ打てるようになった。

 以上、術後3日間の回復レポートです。
 振り返ってみれば術後3日をしのげばなんとかなるというのが総括。

<2013.01.08更新>

P1110515.JPG

登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
名前をクリックすると初登場記事にジャンプします。
※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

ーーーーーーーーーー

■J堂医院

<外 科>


<内 科>


<放射線科>