vol.1 担当医の交代
二番目の担当医
1989年(平成元年)6月30日。
1年1ヶ月にわたって続けられてきた悪性リンパ腫の治療がようやく終わった。
と同時に、担当医も交代になった。
最初からずっとつきっきりで診てくれた夏目先生がいなくなってしまうのは心細かったが、大学病院はそもそも異動の多いところなのでそれはしかたのないことだった。
8月に新しい担当医である白倉先生の外来に行く。
今後は半年に1回くらいの割合でCTチェックをしていくという。
「大丈夫ですよ。夏目先生からちゃんと引き継いでますからね」
先生は満面の笑みを浮かべながらそう言ったが、あまり安心はできなかった。
「相性」と言ってしまえばそれまでだが、私は最初からこの先生が苦手だった。
愛想だけはやたらにいいのだが、上っ面の調子の良さだけで、どこか真実味に欠ける。
笑顔が不自然すぎてかえって緊張してしまう。
1回、バックヤードで部下に威張り散らしていた別人のような顔を目撃してからなおさらその思いは強くなった。
その点、夏目先生は愛想は悪いし不器用きわまりないタイプだが、いつでも真剣だったし、患者をきちんと診ている先生だというのが伝わってきた。
だからここまでついてくることができたのだ。
白倉先生は2年間私を担当したあと、いきなり姿を消してしまった。
今度は本当にいきなりで、どこの病院に移ったのかもわからなかった。
運命的なタイミング
次に担当になったのは冬木先生という先生だった。
白倉先生は一応入院中にも会ったことがあるので少しは接点があったが、今度の先生はまったく初めて会う先生だった。
最初の診察は1991年(平成3年)6月1日のこと。
第一印象は「口べた」だった
夏目先生も口べただったが、それともちょっと違う。
口べたというと普通無口な人を想像してしまうが、この先生は口数がやたらに多いのだ。
常にしゃべってる。
が、「なにをしゃべっているのかよくわからない」。
滑舌が悪いという物理的な問題もあるがそれはさておき、ほとんどの言葉が「だからなに?」という話なのだ。
説明でもなければ、問いかけでもない。ただその場の間を埋めるためだけにしゃべり続けているような落ち着きのない先生だった。
これが立場が逆だったら怒りだす人もいるかもしれないが、立場的に患者は絶対的な弱者なので(少なくともその当時は)、私は必死にめまぐるしく変わる文脈の中からその先生の「意図」をすくいだそうと努力し続けた。
すごくよく言えば「シャイ」なのかもしれないが、これはもはやそんな次元ではない。
今ならはっきり言えるが、この先生は「人がこわかった」のだと思う。
たえず発せられる言葉は相手とコミュニケーションをとりたくないという「防御姿勢」だ。
これは私だけの印象ではなく、母も「あの先生は話しにくい。なにが言いたいのかはっきりしない」とずっと悩んでいた。
多分、一緒に仕事をしていた同僚やスタッフも同様の印象を抱いていたと思う。
なぜことさらこの先生のキャラクターを云々するかというと、結果的に「私がこの病院で絶対に許せない医師2名」のうちの1名がこの医師だからだ。
彼らは病院に守られ、結局なんの責任を負うこともなかったが、私の人生をぶちこわした二大戦犯は間違いなくこの2人だ。
人の巡り合わせとはなんと皮肉なものなのだろう。
このタイミングで出会わなければ、単に「コミュニケーションのとりにくい先生だな」だけで終わっていたと思う。
このタイミングだったからこそ「コミュニケーションの技量不足」が大きな仇となり、凶器となったのだ。
そう。医師にとっての凶器はメスや薬だけとは限らないのだ。
<2013.02.13>
vol.2 もやもやとした再発
なぜ「腹部」なのか?
正直なところ、先生の交代に一番ナーバスになっていたのは母だった。
母は私よりもずっと今までの経緯に詳しかったし、外来にもほぼ毎回同行していた。
なぜそこまで神経質にいちいちついてくるのか、当時の私には理解しかねる部分があったのだが、母にしてみれば「本人は本当の病名を告知されていないのだから、先生には自分が応対しなければ正確な話はできない」と思ったのだろう。
実際、私自身は「治療も終わったし病気は過去のもの」という感覚だったが、母は「再発するんじゃないか」「あれだけやって次に再発したら今度はどうなるんだろう」という不安からずっと離れられなかったのだと思う。
そんなわけで、冬木先生にまず不信感を抱いたのは母のほうだった。
冬木先生がオーダーした最初の検査は「腹部」の「超音波検査」だった。
ここですでに母は何か言いたくてたまらない様子だった。
母に言わせると、そもそもこの問題は白倉先生時代から不信に思っていたことだったらしい。
私の病気の原発部分は「左頸部のリンパ節」だった。
これはあとで母から聞いた話だが、ホジキンリンパ腫は、どこから発生するかわからない非ホジキンリンパ腫と違って、発生する順番が決まっているのが特徴だと夏目先生から説明を受けたのだという。
まずは頸部、その次は腋の付け根、次は脾臓…というように。
私の場合、入院中におこなった検査で、頸部から縦隔に広がっていたものの、腋や脾臓、お腹には広がっていなかったことが確認されている。
にもかかわらず、白倉先生はこの2年間、胸部と腹部のCTばかりチェックしていて、頸部はまったくチェックしてこなかった。
再発のチェックならまず原発部分をチェックするべきなのではないのか?
ずっとそれがひっかかっていた母は、「もしかしてこの先生、カルテをちゃんと最初から読んでいないのでは?」という疑惑すらもっていたらしいのだが、医師に対してそんなことは言えないし、私にも詳しいことは言えないしで一人で悶々と悩んでいたらしい。
そこへもってきて次の担当医による「腹部エコーのオーダー」である。
ますますもって疑惑がふくらんだ。
そこはまず「頸部」だろう!
と喉まででかかったらしい。
しかもなぜいきなりエコー?
今までの検査はCTでのチェックが中心で、時々ガリウムシンチが入るというメニューだった。
エコーもたまにはやったが決してメインではない。
検査にはそれぞれの特徴があり、たとえば同じがんでも検査方法によって大きさや形に誤差が出るので、経時変化をみるなら同じ検査で診ていかないと比較にならないはず。
今になっていきなりエコーとか言われても過去のどの資料と比べるつもりなんだろう。
しかし、今回もやはり医師にそのようなことは聞けなかった。
冬木先生のオーダーにしたがい、私は6月7日に腹部エコーを、6月24日に胸部CTを受けた。
一貫性のない対応
母の不安はこのあと一気に現実となる。
8月16日。
再び左頸部が腫れてきたことに母が気づくのである。
翌日、冬木先生の外来を受診。
頸部を触診した先生は、ここで初めて「頸部」のエコーとX線検査をオーダーする。
が、何度も言うようだが頸部エコーなんてほぼ初めてするくらい久しぶりにする検査だ。
いったいなにと比較するつもりなのだろうか。
比較できるとすれば化学療法終了直後におこなったガリウムシンチだ。
これなら全身撮影されてるはずだから比較が可能なのではないか?
おそるおそるそう提言してみたが「必要ない」という一言で却下。
そればかりか、よけいなことを言ったせいか、これを機に気分も害してしまったようだった。
検査は8月22日におこなわれ、母と私は31日に結果をききに外来を訪ねた。
このときの冬木先生の対応は今考えても不可思議としか言いようがない。
「再発です」
たしかにそう言われたのだが、それ以外の説明がさっぱり要領を得ない。
データや画像を見せられるわけでもない。
はっきり憶えているのは、その場で点滴をされたことだ。
あとからカルテを見て、それはステロイド(プレドニン)の点滴だったことがわかったが、そのときは何の点滴なのかも知らされず、まるで「今日この日から化学療法を始めます」という勢いでさくさくと点滴の準備を始めたので、心の準備もまったくできていなかった私はびっくりした。
なぜそんな印象を受けたのかというと、それには理由がある。
じつは翌日(9月1日)に私は家族の大きな祝い事をひかえていた。
親戚が集まって祖父母のダイヤモンド婚式をホテルで祝うことになっていたのだ。
母がその事情を話し、「治療は明日の集まりに出てからでもいいでしょうか?」と聞いたところ、とたんにムッとした表情になり「治療とパーティーとどっちのほうが大事なんですか?」と言い放ったのである。
いくら深刻な状態でもそんな言い方はないだろうと思ったが、この時点で私と母はそのまま治療に突入することを覚悟した。
ところがである。
点滴はその日のプレドニン30mgだけで終了。
あとはまたいくつかの検査をオーダーしたうえで「病棟ベッド待ち組」として私はその後1ヶ月以上も放置されたのである。
翌日の集まりにも普通に出席した。
なんだったんだ、あの感情的な物言いは…。
単なるいやがらせですか?
その後おこなった検査は9月13日の腹部CT検査(またまた腹部!)、10月1日の頸部エコー検査のふたつだった。
頸部エコーは8月22日におこなった同じ検査と比較するためにあえて同じ先生に診てもらった。
結果は「大きさに変化なし」だったようだ(これも説明を受けた訳ではなく、あとからカルテをみてわかったこと)。
たしかにリンパの腫脹は見られる。が、あれだけの治療と外科手術をおこなったあとなので、あらたな腫脹なのか、瘢痕なのか、みきわめるのは非常に難しい。ということらしい。
ここで前よりも大きくなっているなどの決め手があれば強力な証拠になったのだろうが、「変化なし」となるとますます悩ましい。
冬木先生としては、とにかく入院してもらって精査を重ねたうえで治療方針を決めたいと考えたらしいのだが、大学病院のベッドがなかなか空かないのは最初の入院でいやというほど思い知っていた。
結局、一番てっとりばやいのは、医師ではなく病棟の看護師長に頼むことだ。
長い入院で培った人脈を駆使して、私は緑川看護師長に「どんな部屋でもいいので早く入院できないか」と頼んでみた。
あっという間だった。
1ヶ月かけても冬木先生が手配できなかったベッドを、看護師長はたった一日で用意してくれた。
この出来事で、冬木先生はますます私たち親子をうっとおしい患者だと思ったようだ。
「緑川師長と知り合いなの?」とその後何度も聞かれた。
のみならず、「こんなこと言うとまた緑川さんに伝わっちゃいそうだな」などといういやみもことあるごとにぶちかまされた。
こうして、きわめてよろしくない空気の中、再び入院生活がスタートした。
<2013.02.16>