闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(7)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.12 果てしない絶望

忌まわしい疑惑

 1988年(昭和63年)8月29日月曜日。
 入院94日目。
 2クール目の治療を終えた直後、2泊3日(8月26日〜28日)で家に帰ったが、今回ばかりは病院に戻るのがつらかった。夏目先生が言っていた「なまじ外に出ると里心がつくからあまり外泊はしないほうがいい」という言葉の意味が今になって身にしみた。
 入院も3ヶ月を越えると肉体以上に精神が疲弊してくる。

 秋本先生から「木曜のCTの結果を見てから今後の治療予定について夏目先生から話がある」と伝えられた。
 なんだかいやな予感がしてたまらない。
 1ヶ月前の話では、2クール目の治療が終わった時点で退院して通院治療に切り換えるということだったが、だとしたらこんなタイミングでわざわざ外泊を勧めるだろうか?
 外泊してきたらどうか?と勧められたときから「考えたくない忌まわしい疑惑」が頭にこびりついて離れない。

 3クール目の治療も入院してやるのではないか?

 という疑惑だ。
 とはいえ、この疑惑を打ち消しても今度はまたべつの不安がシミのように広がるのだ。

 本当にこんな過酷な治療を通院でできるのか?

 正直、そう問われると自信がない。
 退院はしたいが、通院も不安。
 どっちにころんでも救いがない。

 そしてさらに気が重いことが……。
 休職のための診断書の期限が8月いっぱいできれてしまうのだ。
 会社の総務に電話をかけてその後の扱いについて説明を受けた。
 有給で休めるのは8月まで。そのあとは無給での休職扱いになるが、給与の4割(退院したら6割)が社会保険から支給される。その期間が3か月だという。
 向こうはそれ以上かかるなんて夢にも思っていないので気楽そうに話していたが、あと3ヶ月で会社に復帰するのは100%無理だとこちらはわかっているだけに、手続きの話をきいても心ここにあらずだった。
 3ヶ月たっても復職できない場合は……それ以上は会社にいられないということだ。
 1年以上勤続していればもう少し休める期間がもらえたのだが、運悪く転職してすぐの入院だったため、休めるのは半年が限界だった。
 しかたがないこととはいえ、やっと転職した会社を何もできないまま去るのは本当に無念で、電話をきってから悔し涙が溢れてくるのを抑えられなかった。

 昼食後、北原先生が帰省土産を持ってやってくる。
 「医局には買ってきてないから、回診のときは隠してね」って私は疎開児童か?!
 今日から北原先生の研修先は第二外科から第一外科に移った。
 先週最後の挨拶にきたときは「回診のときはこれでもう最後だと思ったらなんか言葉が出なくなっちゃったよ…」とセンチメンタルになっていた北原先生。
 呼び出しのベルに泣きそうな顔になりながら「一外に行ってもまた遊びにくるからね!」と言い残してダーッと去っていった北原先生。
 本当にさっそく普通に現れたので笑ってしまった。
 ていうか、今までのってやっぱり「遊びにきてた」のか…。

 そして夕方、外科回診では北原先生の代わりに若い男性の研修医がまじっていた。
 あらためて見ると女性がひとり入ってるだけで随分全体の雰囲気が違うものだなと思った。
 いなくなってみるとなんか全体的に暑苦しい印象。
 北原先生は東山グループの一輪の花だったんだな。
 今度来たらそう言ってあげよう。


最悪の予想を超える展開

 9月1日木曜日。
 入院98日目。
 CT検査のあと、夏目先生が今後のことを話しにやってくる。

 「いろいろ考えたんだけど…」
 いかにも言いにくそうな感じで夏目先生が口を開いた。
 「やっぱりあの吐き気じゃ通院は無理じゃないかな」

 この瞬間、しがみついていた綱がブチッと音をたてて切れた。
 ショックをやわらげるため、期待しないように何度も自分に言い聞かせていたつもりだったが、いざ先生の口からはっきり聞かされると、予想以上にダメージを受けている自分がいた。

 「治療はあと6回ということで」
 いきなり夏目先生が聞き捨てならないことを言う。
 最初は聞き間違いじゃないかと思った。
 「え?……4回…ですよね?」
 「本当は全部で6回なんだけどね…。絶対に再発しないようにあと2回追加しようと思ってるんだ…」
 ………。
 追加…って……簡単に……どうしてそんなに簡単に言えるの?
 「最初の治療が中途半端に終わって失敗すると次はもっと大変になるんだよ。だから…」
 「それは…CTの結果がよくなかったってことですか?」
 「いや、CTの結果はすごくいい。『炎症』はもうほとんど残ってない。薬は確実に効いてると思う。でも薬の効果にかかわりなく、治療の回数は決まった数やらなければいけないことになってるので」

 さらなる打撃ーー。
 正直に言おう。
 「予定」とか「様子を見ながら」という曖昧な夏目先生の言葉から、私は「もし薬の効きがよかったら6回の治療が5回、4回に短縮されることもあるのかもしれない」と心のどこかで期待していた。
 それがたとえほんのわずかな可能性だったとしても、その期待は治療を乗り越える上でかなり大きな励ましになっていた。
 もしかしたらこれで最後になるかもしれない。
 そんな淡い期待があったればこそ、今まで目先の苦しさをしのぐことができたのだ。
 それがはっきり打ち消された上、いつのまにか回数が増えているとは……。
 最後の、本当に最後のささやかな支えも容赦なく踏みつぶされた思いだった。

 あと6回……あと半年……来年の2月まで……。
 いろいろな言葉に置き換えて反芻してみたがその重みは変わらない。
 先生は白血球の数がどうとかまだいろいろ話しているが、もう相づちを打つだけで精一杯だった。
 ここで泣くことだけはしたくなかったので、早くみんな部屋から出て行ってくれないかと、そればかり考えていた。

 今まで贅沢に個室に入れさせてもらっていたが、今後半年となるとさすがにそうも言っていられない。
 治療できついのはせいぜい月に10日なので、それ以外は家で過ごしてもいいというのだが、いったん退院してしまうと再入院するのは難しいらしい。
 となると、多数部屋に移って半年間ベッドを押さえた上で治療期間だけ入院するしかないだろう。
 泣いたあとは現実的な問題が次々に頭をめぐってだんだん冷静になってきてしまった。

 次の治療は来週の水曜から開始だというので、明日(金曜)から月曜までまた家に帰ることになった。


弱り目に祟り目

 9月6日火曜日。
 入院103日目。
 さすがに3泊してくると外泊もゆったり休める感じだ。
 昨日は26回目の誕生日だったが、かろうじて自宅で祝うことができた。

 会社の総務の人たちが休職や保険の手続きも兼ねてお見舞いにくる。
 今日は重要な話をしなければならない。
 あと3ヶ月で復職するのは無理だということを。
 まさか半年休んでもまだ治療が終わらないとは会社側も予想していなかったんだろう。かなりびっくりして言葉を失っていた。
 とにかく11月末までは在籍の権利があるので、それ以降のことはそのときにまた…ということで手続きの切り替えの説明だけして帰っていった。

 転職したばかりなので半年しか休職できないことはすでにわかっていたが、渡された書類にはさらに厳しいことが書かれていた。
 解雇されると健康保険もきかなくなるというのだ。
 これも、前に勤めていた会社の勤続年数を合わせれば3年以上になり、継続扱いになるのだが、加入している保険が違うため、合算は適用されず、加入してから1年未満の扱いになってしまうのだという。
 自己都合でやめるならともかく、好きで病気になったわけではないのに、なぜここまで崖から突き落とされるような仕打ちを受けなければならないのだろうか。
 もう何も考える気力が起きない……。

 秋本先生が明日からの治療について説明にくる。
 「今度は吐き気止め以外に、前日の夜から強めの安定剤を飲んでもらって、眠気の強い状態を作ってから薬を入れようと思う」と言われた。 

 母がついに過労とストレスで倒れたらしい。
 私だけではなく、面会に通う家族も心身ともに限界を迎えていた。

<2013.01.31>

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登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
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※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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