闘病、いたしません。/第1部●悪性リンパ腫(9)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.14 通院治療へ

119日目のエンドマーク

 1988年(昭和63年)9月22日木曜日。
 入院119日目。
 朝から小雨がパラついていたこの日、4ヶ月近い私の入院生活についに終止符が打たれた。

 退院が決まってからの6日間はまるで雲の上にいるような毎日だった。
 先生や看護師さん、事務員さん、検査技師さん、配膳のおばさん、清掃のおばさんにいたるまで、会う人ごとに「おめでとう!」と祝福され、最後の日はあちこちで記念撮影をおこない、ちょっとした芸能人状態だった。

 その日が待ち遠しくて待ち遠しくて夜も眠れなかった。
 ナチュラルハイというのか、興奮状態のスイッチがきれないのだ。
 不眠がどんどんひどくなるので、東山先生が勧める禁断の(?)眠剤に手を出した。

 ……すごかった。
 寝た瞬間と起きた瞬間がピタッと重なるくらい熟睡できる。
 あまりに効きすぎて気味が悪かったが、まあ今は異常な状態だからいいかと退院までは飲むことにした。
 あとで聞いたところ、それは眠剤ではなく麻酔薬だということがわかって驚いた。
 一家で麻酔薬常用してんのかよ、東山家!

 退院が決まった翌日からはソウルオリンピックが始まり、ハイな気分にますます拍車がかかった。
 選手の活躍ぶりに泣いたり喜んだり大忙しだった。

 昭和天皇の大量吐血が報道され、Xデーが噂されるなど、世の中全体の動きもあわただしくなっていた夏の終わりだった。


通院治療のはじまり

 退院後の通院治療は、治療初日と8日目の2回、点滴を入れにいけばいいだけなので、病院へ行くのは月2回でよくなった。

 朝一番で病院へ行き、午前中に点滴を入れ、終わるやいなやダッシュで家に帰る。
 前日から安定剤をしこたま飲んでいるので電車の中でも余裕でフラフラだった。

 ここから翌日いっぱいまでは安定剤の効果でほぼ寝っぱなしである。
 吐き気は点滴を入れた日の夜から朝にかけてがピークだ。
 およそ1.5時間に1回の割合で強い吐き気がやってきてガバッと起き上がるのだが、私もだんだん吐くのがうまくなってきて、ルーティンワークのように枕元の洗面器に向かって吐いては再び寝る…という繰り返しも淡々とこなせるようになってきた。
 そのたびに「1回、2回…残りは×回かな」と冷静に時計を見ながらカウントする余裕も出てきた。

 吐き気があるのは最初の2日間だけで、3日目は吐き気はなくなるものの、体調は悪いままだ。
 4日目からようやく日常に戻れる。
 8日目の点滴でくる吐き気はその日だけだったが、胃腸の調子は3日くらい悪くなる。

 だいたいこんな感じで4回目の治療(10/6〜19)、5回目の治療(11/7〜20)を粛々とこなしていった。
 外が寒くなる頃には髪もほとんど抜けてかつらデビューもはたした。
 通院治療は順調に進んだ……かに見えたが。

<2013.02.05>

vol.15 原因不明の緊急入院

右腕の激痛

 思わぬ異変が6回目の治療(12/5〜18)後に起こった。
 正確に言うと治療が終わる日の前日だったのだが…。

 12月17日。
 突然、右腕が痛くなってきた。
 場所は前腕部(手首から肘の間)だ。
 1週間前からなんとなく痛いとは思っていたのだが、どんどん痛みが強くなってくる。
 痛みは一晩中続き、翌日になっても収まらなかった。
 痛みの質は「鈍痛」。
 腕の上に象がのっかってるんじゃないかっていうくらい重くて、「この腕もぎとって!」と言いたくなるようななんともいえない不快な痛みだった。

 こういうときは決まって日曜だったりするものだが、このときもその例にもれずやっぱり日曜で、先生に連絡をとろうと思ってもとれない。
 携帯もメールもない時代だ。
 退院時に何人かの先生に自宅の住所を教えてもらっていたので、それをたよりに104番で電話番号を教えてもらい、ようやく夏目先生をつかまえることができた。
 「とにかく近所のかかりつけ医に鎮痛剤と座薬を出してもらって様子をみなさい」と言われたのでその通りにしたが、痛みはひどくなる一方で、もはや思考力も判断力も働かないレベルになった。

 耐えられずにもう一度電話したところ、「そんなに痛いのでは今から病院に来る道中も厳しいだろうから、近所の医者に麻薬系の痛み止めを打ってもらいなさい」と言われ、その通りにしようとしたが、かかりつけの近所の医者はそんなものこわくて打てないというので、途方に暮れてもう一度先生に電話。
 「じゃあ病棟の空きがあるかどうかみるから10分後にもう一度かけるように」と言われてしばし待機。10分後に電話したら「病棟に空きはないが、ICUなら入れそうだからとにかくそこへ入ってくれ」と言われ、とるものもとりあえずタクシーで病院に直行する。

 病院に着いたのが5時。
 それからなんだかんだと問診があって、痛み止めの筋肉注射を打ってもらえたのは7時だった。
 「かなり強い薬ですからすぐに眠くなりますよ」というので期待したが、全然期待はずれだった。
 麻薬なんていうからスッと痛みがとれるのかと思ったのにこんなものなのか…。
 2時間もたたないうちにまた我慢できないほどの痛みが襲ってきた。
 本当は4時間空けなければならないらしいのだが、とても耐えられそうにないのでもう一度打ってもらう。
 今度は少し緊張がとれて眠れるようになる。
 痛いことは痛いのだが、精神的な緊張がとれると苦痛の「苦」と「痛」が連動しなくなるので、なんとか我慢できる。

 明け方の4時頃、また我慢できなくなってきたので注射を打つ。
 打つ前から「今度効き目がきれるのは何時間後だろう」とついつい考えてしまう。


無認可の副作用

 翌日は痛みを抱えたまま、検査に連れ回された。
 心電図、胸部・腹部・腕のレントゲン…。これらは短時間で済むのでいいのだが、問題はガリウムシンチの撮影検査だった(これは最初から入っていた定期検査で、すでに2日前にガリウムの注射もおこなっていた)。
 痛みをこらえすぎると吐き気まで出てくる。
 この状態で長時間じっとしているのは拷問だった。
 検査のため浣腸され、朝一番で撮影に臨んだのだが、途中で脱水症状のようになってしまい、検査は午後に持ち越しに。

 持ち越しということは、朝に続いて昼も当然抜き。
 ご飯は別に食べたくなかったが、水分をとれないのがきつい。口の中がカラカラで目が回りそうだった。
 先生が苦労して点滴を入れてくれて、吐き気や口の渇きはなんとかとれてきた。

 午後3時。
 ガリウムシンチの撮影の続きをおこなう。
 脱水は緩和されたものの、撮影途中で腕の激痛がぶりかえしてきてまたまた麻薬注射。
 一日がかりの検査となったがなんとかすべて終了。
 眠前にもう一度痛み止めを打ってもらい、眠剤を飲んで就寝。

 このあと24日まで計1週間入院して原因をさぐったが、結局異常はどこにも見つからなかった。
 頸部〜腹部のCTも異常なしだったし、頸椎のレントゲンも脳のCTも異常なし。神経内科でも診てもらったがどこも悪くないという。

 そうこうしているうちに痛みは日に日に軽くなっていき、ついにはまったくなくなってしまった。
 先生も「何が原因だかまったくわからない」と首をひねるばかりだったが、私にはある確信があった。

「治療で使っている薬のどれかの副作用ではないか」

 なぜなら、ここまでひどいのは初めてだったものの、前回の治療のときにも同じタイミングで腕が痛くなったことがあったのだ。
 そう言ったら先生は「そんな副作用は載ってないし、副作用だとしたら両上肢ともに出るはず。右だけというのはありえない」と言い張り、絶対に認めようとしなかった。
 こういうときの医者はおそろしく頑固だ。
 とは言いながらも、一応次の治療(1/26〜2/8)では問題と思われる「ビンクリスチン2mg」が「フィルデシン3mg」に変更された。

 そのときも同じタイミングでやっぱり痛みは出たのだが、前回よりは軽く済んだ。
 そして残る最後の治療では痛みは出なかった。
 やはりこの薬の副作用だったのだ。

 ビンクリスチンの副作用としてよく知られているのは「末梢神経の麻痺」だが、私のそれはあきらかに「痛み(筋肉痛)」だった。
 その当時は副作用の中にまだ「痛み」はなかったのかどうかはわからないが、今調べるとちゃんと「四肢疼痛」「筋肉痛」も載っている。
 そればかりではない。
 「血管痛(血管壊死)」も「不眠」も載っている。

 あれもこれも気づかなかっただけですべて副作用だったんだなとあとで日記を読んであらためて気づいたが、これは治療時には知らないほうがよい情報かもしれない。
 今はネットでどんな情報も手に入る。
 それはそれで「自分が受ける治療を知る」という点ではとてもよいことだとは思うが、ここまで知ってしまってから治療を受けるというのもそれはそれでつらいことかもしれない。

 ともあれ、元号が平成に変わった1989年(平成元年)3月6日月曜日。
 一年近い月日を経て乗り越えて来た治療はようやく終了した。 

<2013.02.06>

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登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
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※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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