闘病、いたしません。/第2部●再発(3)

がん治療のツケを払い続けている一患者の記録

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vol.4 放射線治療開始

今回も工事中だったJ堂医院

 1991年(平成3年)10月14日月曜日。
 入院8日目。
 この日から放射線治療がスタートする。
 照射範囲は「前回と同じ(←ここ重要)両鎖骨上窩~上縦隔」+「両腋窩」というものだった。
 「両腋窩」は予防のための照射だという。
 再発と思われる箇所は左頸部だけなのに、ここまで広範囲にためらいなくバンバン照射することをみても、「ホジキンなんだからどんどんかけよう」というスローガンは伊達ではないことがわかるだろう。

 2年前は治療室が工事中で浦安まで通うことになったが、今回も本館が建て直し中ということで、すぐそばの系列病院までマイクロバスに乗って通うことになった。
 ただでさえ連携のよろしくない病院なのに、さらに違う病院に通わされるとはまったくついていない。

 運動不足になりそうなのでできることなら歩いて通いたかったが、管理上の問題があるのでダメだと言われる。
 回診のときに「一人だとダメなんだそうです。先生がついてきてくださればいいらしいですよ」と冗談で言ったら「そうか。じゃあ青柳先生、アッシーくんをやってあげなさい」と青柳先生に話を振る赤司先生。
 春までアメリカにいたという赤司先生は世事に驚くほどうとかったが、こういう世相語だけは中途半端におさえているんだな。

 翌日から2人部屋が空いたのでお引っ越し。
 広いし静かだし、それだけでかなり楽になった。

 治療5日目で黒崎先生の診察を受ける。
 放射線科もそうだが、この病院は何科であっても本当にいちいちよく待たせる。
 外来ならともかく、入院患者なんだからもっと間際に呼んでくれればいいのに、なんか待たされてばかりいるイメージだ。

 待たされる長さに比べ、診察時間のなんとはかないことよ。
 照射範囲をマークするテープを貼りかえて、ほとんど形だけの問診があっておしまい。
 数日前からなんとなく気持ちが悪いので「午前中になると気持ち悪くなるんですが…」と言ったら、「そんなに早く副作用は出ない。それは放射線のせいではない」と一蹴される。

 治療後1週間程度で脇の下のリンパ腺が痛くなってきた。ちょっと筋肉痛の痛みに似ている。赤司先生に言ったら、放射線をかけていると出てくる症状だと言われた。
 気持ちが悪いのはやはり気のせいではなく、胃の具合も悪くなってきた。
 また、この数日妙にだるいなと思っていたのだが、予想通り白血球が減少してきている模様。


訴える先のない副作用

 10月23日水曜日(治療8回目)。
 この日から喉の具合がおかしくなる。
 ものをのみこむとひっかかる感じがする。

 10月24日木曜日(治療9回目)。
 喉の違和感はさらにひどくなって、のどがカラカラとひからびていく感じに変わった。
 赤司先生がお休みだったので青柳先生に訴えてみたが「放射線科の先生に言ってください」と逃げられた。
 しかたがない。明日が放射線科の診察日なのでもう一日待とう。

 10月25日金曜日(治療10回目)。
 なんとこんなときに限って「本日の診察は休み」だという。
 週1回しかないのに休みってなに?
 代診の先生もいないの?
 とかなりムッとしたが、看護師さんに「とにかく先生には伝えておきますから」となだめられてその日も治療にでかけた。

 治療から帰ってきたところで、赤司先生と青柳先生がやってくる。
 「一応、黒崎先生に電話で連絡してみるが、もしあまり副作用がきついようだったら、少しお休み期間をおくというのも手かもしれない」と言われる。
 以前浦安でかけたときはこんな副作用は出なかったのだが、今回は照射量が多いのだろうか、それとも照射範囲が広いのか。
 とにかく詳しい話はなにも説明されないのでこの先どうなるのか見当もつかない。

 胃のむかつきもひどくなってきた。
 夜には喉のつまりが段々下にまでおりてきて、つまるだけではなく痛みを伴うようになった。

 10月26日土曜日(治療なし)。
 食道の痛みと胃のムカムカで明け方に目が覚める。
 しばらく我慢してたら、今度は胃が収縮するようにキューッと痛くなってきたので、ナースコールをして吐き気どめの座薬をもらう。
 座薬が効いて少し眠れたが、1時間ほどでまた胃痛に襲われ、今度は胃の薬を静脈から注射してもらう。

 喉の痛みのほうもますますひどくなってきた。
 つばを飲み込むのもいちいち構えなければならないし、食べ物をのみこむたびに食道に沿って痛みが走るので食事もなにかの苦行みたいだ。

 赤司先生と青柳先生がやってくる。
 黒崎先生に会って話をしたが、「そういう症状は誰にでもあるから、心配しなくても大丈夫」と言われて終わったという。
 心配ってなに???
 なんかズレてない?
 私は心配なんかしてないよ。痛いからどうにかしてくれって言ってんだけど。
 赤司先生は「休んでもいいんじゃないか」と穏健派なのだが、黒崎先生にはそんな意志はみじんもないようだった。
 せめて直接会って説明させてくれればいいのに話も聞いてくれないの?

 こうなったらできるだけ現場に苦痛をアピールしなければ…と昼食を残す。
 食後に看護師さんがやってきて、いつもの通り「食事はどのくらい召し上がりましたか」と聞いてきたので、暗い表情で「ほとんど残しました」と答えてみた。
 そこで「あらー、胃の調子がまだ悪いんですか」ときたので、ここぞとばかりに「喉が痛くて食事が通らないんです」と悲しげに訴える。
 看護師さんはしばらく沈黙したあと、「おかゆにしましょうか」。

 ……いや、そういうことを言ってるんじゃなくて!

 なんかここの人たち、みんないちいちズレてないか?
 それともわざとやってるのか?

 10月27日日曜日(治療なし)。
 夕べは喉の痛みで何回か目がさめてしまった。
 せっかく胃の調子が回復して食欲が出てきたのに、今度は喉の痛みで食事ができない(今日は食道よりも喉の方が痛い)。
 先週もそうだったが、一番具合の悪い時に限って先生がいない日というのが腹が立つ。外科の先生は日曜でもけっこう出勤してきていたが、ここの病棟の先生は全然出てこない。
 上の先生が休むのはまだわかるが、研修医もきっちり出てこないのは本当に困る。訴える相手がいないのではなんのための入院だかわからない。

 昼食はなんとかだいたい食べたのだが、夕食は一口ずつしか食べられなかった。
 喉の痛みはますます激しくなり、ものを飲み込むとガラスの破片を飲み込むような感じで、唾を飲む度に激痛が走る。もう泣きたい。

 10月28日月曜日。
 夕べも喉の痛みで何度も目がさめた。
 喉の痛みはいよいよひどくなっている。
 唾を飲み込むたびに身体中に力を入れなければならない。
 人って普段こんなにたくさん唾を飲み込むんだとあらためて思ったくらいいちいち痛い。

 今日は放射線治療に行く前にどうしても先生にこの苦痛を訴えたかったので、主任さんに「先生に即刻顔を出すように伝えてくれ」と頼んだ。
 あたふたとかけこんできた赤司先生に向かってこの2日間ためこんだ愚痴を一気に爆発させたが、先生は意外に真面目に聞いてくれた。
 「そんなに痛いのなら、今日の治療は休みましょう。黒崎先生には言っておきますから」という。
 喉とか食道というのは、表面に近いだけに放射線による損傷を受けやすく、おなかの臓器よりも痛みを感じやすい部分なのだという。
 多少休んでも前にやった分が無駄になることはないというので、それならできればしばらく休みたいと思った。


赤司株大暴落

 ……とここまでは赤司先生の株上昇中だったのだが、その株は数時間後にあっという間に暴落した。
 なんとこのあとのこのこと舞い戻って来て「黒崎先生に言ったら『やっぱりそのくらいは当たり前なんだから辛抱しろ』と言われた」と言いだすのでびっくりした。
 なんだ、それ。
 子供のおつかいか!
 赤司先生は妙に黒崎先生を恐れていて、「向こうは放射線治療にかけては大変なキャリアを持っていて、いろいろな症例を見ているから、こちらとしてはそのあたりの裁量は黒崎先生の指示を仰ぐしかないのだ」と言う。
 そのオドオドとした態度によけい腹が立った。

 そもそも今回の治療にあたっての赤司先生の説明は非常に気楽なものだった。
 「再発と言ってもリンパ節は非常に小さいし、絶対やらなきゃいけないというほどのものではないが、念のため(←医者の常套句。この言葉にだまされると酷い目に遭う)にやっておきましょう」という感じ。
 絶対にやらなくてもいいものならやりたくないというのが本音だったが、せっかくここまで頑張って治療をやりとげたんだから…という気持ちもあって今回の治療を受けることにしたのだ。
 放射線治療についての説明はほとんどないに等しかったし、こんなにいろいろ副作用が出るのはこちらにしてみれば「話が違う」という思いだった。

 「先生は、最初『絶対にやらなくちゃならないわけじゃないけど念のために』っておっしゃいましたよね。念のためくらいの治療でここまでの苦痛を味わわなきゃいけないんですか」
 思わずとげのある言い方になった。
 「しかし黒崎先生はいろいろな症例を見て…」
 また黒崎かよ。
 「いろいろな症例を見すぎて感覚が麻痺しているからたいがいの副作用がたいしたことなく見えるんじゃないんですか?」
 「まあ、そう言われればそうとも言えますけど…」
 「だいたい我慢我慢っていいますけど、前の治療のときは地獄のような苦しみも3日でしたよ。でも今度はずっと続くんですよ。食べられないし眠れない。今この瞬間も針を飲み込んでるみたいに痛いんですよ。そんな簡単に我慢とか言わないでください!」
 「まあ、それはそうでしょうが、でも黒崎先生が…」
 赤司先生は明らかに狼狽して同じセリフばかり繰り返している。
 結局先生は私を説得することに失敗し、すごすごとひきあげていった。

 夕方、再び、赤司先生が説得に登場した。
 先生はなんとか治療を続行させようと必死。おおかた黒崎先生に「このまま患者が治療やめるとかいいだしたらあんたの責任だからね」とかなんとか脅されてきたのだろう。

 「小春さんの場合、若いこともあって、他の人より念入りに甲状腺をプロテクトして照射範囲を絞っているんですよ」と今度はやけに恩着せがましい言い方をし始めた。
 冗談じゃない。そんなことで「まあ、そんなに私のことを考えてくださってたなんて……感激ですわ」なんて思うかっての。

 追いつめられた赤司先生はどんどん地雷を踏んで行く。
 「まあこうなることは予想できてたことだし」
 え?予想できてたの?
 「もっとひどくて声もでなくなっちゃう人もいますからね。そこまでいかないたいしたことのない痛みだったら…」
 「たいしたことのない」という部分にヒクッと眉をつりあげて反応した私を見てあわてて言い直す赤司先生。
 「いや、たいしたことのないっていうのは失礼だけど、その…一応我慢できる範囲の痛みだったら我慢した方がいいと…」
 赤司先生は、最初に「やってもやらなくてもいい治療」とうっかり口を滑らせてしまったことを心底後悔しているようで、今度は精一杯慎重に言葉を選んでいる。

 それにしてもこのやり方は卑怯だ。
 もっとひどい症状の人のことなんて持ち出されたら何も言い返せないではないか。
 「やっぱりこれはやった方がいい治療だし」
 「……」
 「中途半端で終わらせてまた後で再発したらいやでしょ」
 「……」
 ああ、もう聞き飽きた。どれも前の治療の時に散々聞いたセリフばかりじゃないか。いったい何回「これで終わり」と言えば気が済むのだ。

 結局、痛みどめを積極的に使うということで、また治療を再開することに同意した。
 薬づけになるのには抵抗があるが、あと2週間だけのことと言われればまあ短いような気もしないではない。

 また喉が痛くなってきたので座薬を入れる。
 座薬は即効性があるが、持続性に欠けるのが難点だ。6時間くらい間をあけてと言われたが、3時間もすれば効果は薄れてしまう。
 経口と併用すればもっと効果があがるというので、それも使うことにする。

<2013.02.27>

vol.5 許せない暴言

告知という「ネコの鈴」

 10月29日火曜日。
 明け方に喉の痛みで目が覚めたので、座薬を入れる。
 朝食。一口ずつ試してみるが、やっぱり痛くてほとんど食べられない。
 喉越しのいいものを選ぶと、必然的に腹持ちのよくないものばかりになるので、何を食べてもすぐにお腹がすいてしまう。

 青柳先生が珍しく単独で回診にやってくる。
 赤司先生は昨日かなりビビッていたらしく、「もっと追い込んでやれ」とおもしろがっている。自分は完全に攻撃の外にいると思っているようで、「やっぱり痛いのはやだよねぇ」とかうまく調子を合わせてくる。みかけによらず世渡りのうまいやつだ。

 私からみれば青柳先生は若いのに覇気がなさすぎだ。
 もっといえば「やる気なさすぎ」。
 隣のベッドの担当医は青柳先生と同期らしいが、いかにも仕事熱心な熱血タイプで1日に10回くらい患者の様子をみにきている。
 一方、青柳先生が顔を出すのは1日にせいぜい2回程度。それも赤司先生のお尻にくっついてきてるだけで、何もしゃべらないことがほとんど。どう見ても積極的に治療にかかわっているようにはみえない。
 普通は下の先生が中心になって動き、上の先生はそれをフォローするような立場にいるはずなのに、うちはまったく逆でほとんど赤司先生が仕事をしている。

 午前中にようやく放射線科から呼びだしがくる。
 初めて黒崎先生に直接痛みを訴える機会が巡ってきたのだ。
 私は精一杯今の状況を伝えようと頑張ったが、いくら痛みを説明しても先生はひとかけらの同情も共感も見せず、あからさまに不機嫌な顔をするのみ。
 そればかりか、「どうしてこれくらいのことが我慢できないのかねえ。他の人は皆これでやってる。もっとずーっと年とった人だってやってるんだよ」とものすごい非難がましい言い方をされて傷ついた。
 年寄りの方が痛みには鈍感だと思うのだが、そんなことを言ったらますます逆上しそうなので黙っていた。

 私にはわからない。
 どうして自分の痛みを訴えるのに、他の人の痛みまで考慮しなくてはならないのだろうか。
 痛みはその人固有のものであり、他の人と比較したって意味がない。
 自分の痛みを「こんなものです」と目に見える形でとりだして見せることができたらどんなにいいだろう。それができないのがもどかしくてたまらない。
 「食事の前に水を飲めば楽になるはずだ」と言い張るところをみても、この先生が言う「一般的な痛み」がたいした痛みであるとは思えない。
 私は水を飲むのも痛いのだ。そう訴えたのだが、まったくとりあってもらえなかった。

 結局、ブロックする部分をさらにギリギリまで広げてもらうことで、明日から治療を再開することになったのだが、そういう妥協すら黒崎先生には我慢がならなかったようで、帰り際にこんな捨てゼリフを吐かれた。
 一生忘れられない衝撃的な言葉だった。

 「いいんですよ。治療するかどうかはあんたが決めればいい。でも今治療しておかなければ将来大変なことになると私は思いますよ」

 後半部分の声色は今でも耳についてはなれない。
 もう悔しいは、喉は痛いは、腹は減るはで、歯ぎしりをしながら病棟まで帰った。

 これは脅迫と責任転嫁を一気におこなうじつに卑劣な言い方だ。
 医者にこんなことを言われて拒否できる患者がいったい世の中にどれくらいいるというのだ。

 もう一度ここではっきりと言っておく。
 私はこの時点でもまだ自分が「がん」であることを告知されていないのだ。
 それは黒崎先生だって知っているはずだ。
 知っていながら、告知されてない患者に向かって「治療するかどうかはあんたが決めれば?」って言っちゃったんですよ、この先生。

 私は今でもこの病院はいったいいつまで病名を隠したまま治療を続けるつもりだったんだろうと、非常に疑問に思う。
 たしかに最初は生存率も低いシビアな病気ということもあり、告知を見合わせた事情もわからなくはない(今だったら絶対に告知されていただろうが)。

 しかし、ある程度治療が奏功し、一応「サバイバー」のカテゴリーに入ったのであれば、担当医が家族と相談をおこなったうえで、しかるべきタイミングで本当の病名を本人に責任をもって伝えるべきなのではないだろうか。
 再発の可能性や後遺症の可能性を考えても、このまますべて本人だけがなにも知らない状態で一生済ませられる問題ではない。
 背負うのはすべて「本人」なのだから。
 そして、そのタイミングはまさにこの「再発」のときだったのではなかったのか?

 しかし、今回も私に対して「告知」という面倒な仕事をおこなおうという人は誰もいなかった。
 「告知しない」というのは「深刻に思わせない」という意味だから、どうしても赤司先生のように「そんなたいした再発じゃない」という言い方をする先生が出てくる。
 その一方でシビアな治療をなんとか言いくるめて受けさせなければならないわけで、そんなややこしい状況の中、一時の感情で患者にこんなセリフを平気で口走ってしまう黒崎先生は人間として最低な医師だと思う。


ドツボにはまる赤司先生

 部屋に戻ったところで、赤司先生と青柳先生がやってくる。
 黒崎先生の診察はどうだったかと聞かれたので、内容をそのまま報告したら、最初から結果がわかっていたような顔をされた。

 私がムッツリと沈黙しているので、赤司先生はかなりあせって「あとで後悔しないように治療はするしかない。あと少しの辛抱だから頑張ろう」というような内容のことをベラベラしゃべり続けている。
 が、しゃべればしゃべるほど失言がボロボロ出てきて、またあせって余計なことをしゃべるという負のスパイラルに入り込んでいく。
 青柳先生は例によってまったくフォローしようとせず、隣から冷ややかな視線を送るのみ。
 あまりの気まずさに帰るきっかけを失った赤司先生だが、30分後に入浴の呼び出しがきたのを機会にホッとした表情で帰っていった。

 ちなみにこの日のカルテには「患者は医療に対して不信感を持っている」「放射線治療は必要な治療であることを説明したがあまり納得していない様子」と書かれていた。
 私が不信感をもっているのは「あなた」です。赤司先生。
 この時点での私の医療不信なんて今から考えたらまだまだとってもかわいいものですよ。

 10月30日水曜日(治療11回目)。
 今日からまた治療が再開になる。
 送迎をしてくれる運転手さんや付き添いの看護師さん、放射線技師さんなど、現場の人たちはみな親切で、喉が痛くなったと聞いて心配してくれた。誰も「そのくらい当たり前だ」なんて言わない。
 ちゃんと話を聞いて苦痛を受け止めてくれれば(たとえ形だけであっても)、私も頑張ろうという気になれるかもしれないのに、頭ごなしに「皆そうなんだから我慢しろ」なんて言われたら、理不尽な思いだけが残るのは当然だろう。なぜそれがわからないんだろう。
 この日からは、プロテクトする部分を広げ、喉をほぼ全部鉛で覆ってもらうことになった。これで随分違うはずですよと技師さんに言われる。

 夕方、青柳先生がガリウムシンチの写真を持ってきて見せてくれる。ガリウムが集積している部分は、やはり左首部分だけで、あとは正常だとのこと。

 10月31日木曜日(治療12回目)。
 喉の痛みは鎮痛剤を使えばなんとか我慢できる程度にまで収まってきた。
 最初は座薬も短時間しか効かなかったが、だんだん長時間持つようになってきた。痛み自体が弱くなってきた証拠だろう。
 確かにまだ喉がカラカラする不快感はあるものの、このくらいなら我慢できないことはないし、食事もかたくてパサパサしたものや特別辛いものでなければ充分食べられる。
 黒崎先生が最初に言っていた「水を飲めば我慢できるはずだ」というのは、この程度の状態のことを言っていたのではないだろうか。
 だとしたら、やっぱりあのピークの痛みをわかってくれていたとは思えない。

 11月1日金曜日(治療13回目)。
 寝ている間は口の中が乾燥するせいか、朝起きたときが一番喉が痛い。
 昨日までは単なる抜け毛だと思っていたが、髪を洗ったら明らかにまとまって抜けるようになったことに気付く。これも放射線治療の副作用なのだろうか?
 青柳先生に「治療のせいか髪がよく抜ける」と言ったらショックを受けて狼狽していた。心配してくれてるのかと思ったらそういうわけではなく、最近自分の髪の毛が薄くなってきていることをすごく気にしていて、「髪が抜ける」というキーワードに異様に敏感に反応するようになっているだけの話らしい。
 ほんとにどいつもこいつも自分のことばっかりだな。

 午後、珍しく冬木先生が現れるが、形だけという感じで絵に描いたようなおざなりの診察。
 病棟でここまでもめてるって知ってるんだろうか?
 ほとんど他人事のような感じだ。

 明日から連休で治療が3日間お休みになるので、今日の夕方から外泊することにした。


不信の上塗り

 11月10日日曜日(治療なし)。
 外泊期間中にぐっと冷え込みが厳しくなったため、風邪をひいてしまった。
 放射線の喉の痛みの方は順調にやわらいでいき、木曜日には一日座薬なしで過ごせるようになったが、いれかわるようにさまざまな風邪の症状が出てきて体調がスッキリしない。

 今朝から腋の下がヒリヒリし始め、確認してみたらわずかだけれど、1か所すりきれて皮がペロッとむけている部分があった。そこが布地にあたって痛むらしい。
 たしかにかゆくてちょっとひっかいたような記憶はあるが、普段ならこの程度ひっかいたくらいで皮がむけるなんてことはありえない。やはり放射線のせいでかなり皮膚が弱くなっているようだ。
 そういえば、2~3日前にも右肩のところにかさぶたができて、それを剥いたらいっこうに乾かなくてずっとヒリヒリ痛んでいる。
 そこも布があたると痛いのでカットバンを貼っておいたのだが、カットバンはかえって患部が乾きにくくなるからあまり長い間貼っておくとよくないと看護師さんに言われる。
 とりあえずの処置として、患部を消毒したあと、抗生物質の軟膏を塗布したガーゼをあててもらう。

 11月11日月曜日(治療18回目)。
 赤司先生と青柳先生の回診。 
 今日の治療が終われば、いよいよ残りはあと2回のみとなる。
 明日採血をしてみて、よほど問題ある結果が出ない限りは、あさっての20回目の治療が終わり次第そのまま退院してもよいとのこと。
 15日に頸部のエコー検査が入っているが、それは外来で済ませてもらうことにした。

 11月12日火曜日(治療19回目)。
 放射線科の黒崎先生の診察を受けにいったところ、思わぬ言葉を耳にする。
 「明日で治療が終わるなんて言ったおぼえはない。治療は25回やる」というのだ。

 また……なの……?

 前に入院したときに諮られた数々の出来事が脳裏にフラッシュバックし、めまいがしてきた。
 そうは言っても、退院の話まで具体的に出されたのだからこちらとしても簡単にはひきさがれない。
 「担当医は20回と言っていましたが…」と確認のためにも食い違いを主張してみたが、この言葉が火に油を注いだ形になった。

 「べつにいやならやらなくてもいいんだよ。やらないと再発するけどね」

 ルール違反のこの言葉が再びたたきつけられた。
 いったいこの先生の神経はどうなってるんだ。

 私は25回やるのがいやだと言っているのではない。
 内科と放射線科のあいだでいちいち合意ができていなくて、それにこっちがふりまわされることにいいかげん頭にきているのだ。
 連携のなさを露呈して患者を不安にさせているのはそっちなのに、どうしてそんな子供のいやがらせみたいな言葉を投げつけられなければならないのか本当に理解に苦しむ。
 そもそも放射線治療を始めるにあたって、どこに何回どのくらい照射するのかを事前に本人に説明しない放射線医が一番異常じゃないのか?と言いたい。

 「本当にそんなこと言ったの?」と疑う人もいるだろうから、これも直筆カルテをお見舞いする。

P1110546.JPG

 ご覧のようにはっきりと「内科は20回と言ったらしいがそんなことは言ってない」「クランケ(患者)が決めればいい」「やらないと絶対再発するけどね」といった内容の記述が書かれている。
 自分でカルテに書き残しちゃうんだから、この人は本気でそう思ってるんだろう。
 「絶対再発する」なんていかがわしい言葉、まともな医者なら絶対に言わないよ。
 どうやらこの人は「再発は絶対する」けれど「後遺症は絶対に起こらない」と思ってるらしい。
 これも後に本人が堂々とそう言っていたと聞かされたので、本気でそう思っているのだろう。
 これが「放射線について大変なキャリアと見識をお持ちの大学病院の先生」のレベルなのだ。
 まずはこれを認めるところから病院はスタートしてほしい。

 赤司先生に黒崎先生に言われたことを伝えて問いただしたところ、思った通り「いやー、僕も20回だとばかり思ってたけどね。でも黒崎先生が25回やった方がいいっていうんなら、やっぱりやった方がいいんでしょう」とあっさりと自分の言葉をひるがえした。
 赤司先生は一見やさしい先生に見えるが、実体は主体性のない事なかれ主義者だ。ゴタゴタドロドロしたものから離れるためだったら、簡単にまわりと迎合する。
 理系人間の特徴で、わかりきっているような表面的なことは何十分も長々としゃべり続けるが、こちらが一番細かく知りたいと思う問題の核心部分についてはいとも簡単に一言で済ませてしまう。
 この微妙な部分に対する察しの悪さというか無神経さには、悪気がないであろうだけにいっそうイライラとさせられる。
 事なかれ主義という点では青柳先生も同じ。こっちはわかっていながら手を出さずに離れて見ているようなところがあるのでもっとタチが悪いと思う。

 とにかく、あと5回やってくれさえすれば好きなようにしてくれていいという感じだったので、金曜の治療を受けた時点で退院して、土日休んで残り3回の治療(月から水)は通院して受けるということに決めさせてもらった。
 ここまで不信感が募ると、もうこの先生たちの顔を見る時間もできる限り短くきりつめたい気分だ。

 肩のかさぶたは乾いたが、腋の下はまだヒリヒリしている。
 体温計をはさむと痛いので、右腋にはさんでいたのだが、右の方もかゆくなってきた。
 かいてはいけないと我慢していたが、我慢できずにかいてまたすりむけてきてしまう。
 看護師さんに消毒してもらいガーゼをあてるが、場所が場所だけにやはりすぐに丸まってはずれてしまう。
 腋の皮膚は柔らかい上に、常にどこかとくっついている湿った場所なので、乾かすのは非常に難しい。


これは昔話ではない

 11月13日水曜日(治療20回目)。
 昨夜は、夜中に左の腋の下が猛烈にかゆくて目が覚めてしまった。
 看護師さんに持ってきてもらった氷嚢で腋を冷やしたら少し楽になる。

 血液検査と胸部レントゲンの結果は問題なし。
 微熱がこれで1週間続くのでそれだけが心配だが、べつに血液検査で炎症反応は出ていないので気にしなくてよいと言われる。

 皮膚科で脇の下を診てもらう。
 一応組織をとってカビの検査もしてみたが結果はシロで、やはり放射線による皮膚炎、つまり「やけど」という診断だった。
 薬を出してもらい、1週間後にまた来るように言われる。

 入浴時などに鏡でよくよく見ると、放射線をかけている首から胸にかけてと腋の部分だけがくっきりと紫色になっているのがわかる。
 髪の毛については一時ほど抜けなくなってきた。

 夜、腋を消毒して抗生剤とリンデロン(ステロイド軟膏)をつけてもらうが、患部が熱を持っているため、温まってきたら再び猛然とかゆくなってきた。
 もう1回消毒してもらい、氷嚢で冷やしたら楽になった。

 11月14日木曜日(治療21回目)。
 コンタクト科を受診。
 相変わらずものすごく待たされる。
 コンタクトをとられた状態(見えない状態)で何十分も待たされていたら、なんだかだんだん気分が悪くなってくる。
 血圧を測ってもらったらかなり急降下していたため、車椅子のお迎えが来て病棟に強制送還される。
 せっかくここまで待ったのにリタイアは無念。
 熱は相変わらず37度台前半が続き、右腋のかゆみも耐え難いほどひどい。

 11月15日金曜日(治療22回目)。
 頸部の超音波検査を受けて放射線治療を受けたあと退院。

 以上、今回の入院期間は40日間だった。
 結局、放射線治療は2gy×25回で合計50gyの照射を受けた。
 前回の治療と合算すると80.4gy。
 その数字の異常さも、その後のリスクについても、誰一人口にすることはなかった。
 ……というと、「当時の医療水準では…」と擁護に入る人がいるかもしれないが、当時の医療水準にあてはめてもこれが妥当な治療だったとは断じて言えないはずだ。
 つっこみどころは山のようにある。

 が、問題は、こんな治療が天下の大学病院でまかり通っていて、今でもそれをかばう人やうやむやにしようとする人が大勢いて、誰一人申し開きをする義務も説明する責任も負わされないということ。
 そして、なによりもここまでの思いをして患者自身が声をあげなければ「起こった事実そのものが当たり前のように闇に葬り去られてしまう」という医療業界の現実である。

 これは「昔はこんなひどいことがあってね」という昔話ではない。
 進歩したかのように見えるのは表面だけで、一皮むけばそのメンタリティーはなにも変わっていない。
 患者はだまされ続け、生き延びる人が増えただけ、犠牲者は累積していく。
 違うというのなら、これを過去の問題として切って捨てずに真摯に向き合ってほしい。

 なにも変わっていないから同じ過ちを繰り返し、なにもわかっていないから訴訟を起こす患者をクレーマーとしか見ることができないのではないのか?

 私の受けた「がん治療」は以上で終わりだ。
 その後も2つのがんに見舞われたが、いわゆる「がん治療」はいっさい受けていない。
 その理由はこのあとわかる。

 今もこの記録を書きながら片時も休まらない身体的苦痛にさいなまれている。
 このときに受けた治療の烙印は現在進行形で私の体の中で生きているのである。

<2013.03.01>

P1110515.JPG

登場人物一覧

人物名はすべて仮名です。
名前をクリックすると初登場記事にジャンプします。
※当時は「看護婦」「看護婦長」と呼ばれていましたが、文中では現在の呼称に従い「看護師」「看護師長」と表記します。

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■J堂医院

<外 科>


<内 科>


<放射線科>